掲載時肩書 | 作曲家 |
---|---|
掲載期間 | 1956/06/13〜1956/06/19 |
出身地 | 東京都 |
生年月日 | 1886/06/09 |
掲載回数 | 7 回 |
執筆時年齢 | 70 歳 |
最終学歴 | 東京藝術大学 |
学歴その他 | 東京音大予科 |
入社 | |
配偶者 | N離婚し、Mと |
主な仕事 | 独音楽留学、日本舞踊、東京管弦楽団、カーネギーH 、ニューヨーク交響楽団 |
恩師・恩人 | 岩崎小弥太、外園律三 |
人脈 | 小山内薫、斎藤佳三、近衛秀麿、本野精吾、石井漠、チャッド・ボーン夫人 |
備考 | KG中・退、長姉の援助 |
1886年〈明治19年〉6月9日 – 1965年〈昭和40年〉12月29日)は東京生まれ。作曲家、指揮者。日本語の抑揚を活かしたメロディーで多くの作品を残した。日本初の管弦楽団を造るなど日本において西洋音楽の普及に努めた。また、ニューヨークのカーネギー・ホールで自作の管弦楽曲を演奏、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団やレニングラード・フィルハーモニー交響楽団等を指揮するなど国際的にも活動、欧米でも名前を知られる。
1.帰国直後の日課
1914年1月、4年のベルリン留学から27歳で帰国した。そのころの日本の楽界は皆無だった。文学の世界では「白樺」を中心とする新しい運動が展開され、美術の方も「フィユザン」一派が力強い歩みを続けていた。「青鞜社」という婦人の芸術活動も、若い新帰朝者としての私の眼をみはらせた。万世橋のタカラ亭楼上で開かれていた火曜会という芸術家の集いにも、私はよく引っ張り出された。与謝野晶子女史のつつましやかな伏し目がちの姿も、平塚雷鳥女史の端正さと、知性に輝く瞳をみたのも、この集いだった。
昼は本を読み、ピアノを弾きまくり、夜は銀座で一人飲み歩いた。先輩に連れられて茶屋酒の味も知ったが、ゲイシャが邪魔になってならなかった。私はいつも座敷の隅で、ウィスキーをストレートで飲み続けた。酒好きの兄の鉄雄も、さすがに私の飲みっぷりには舌を巻いていた。それに、ありあまる青年のエネルギーをどう処理しているのかと怪訝に思っていた。そのころの私は肉よりも酒を追った。兄の心配してくれるゲイシャさんでは、とうてい満足できないし、気の抜けた肉を抱くことは嫌でならなかった。読み、書き、談じ、そして飲む、というのが私の日課だった。
2.帰朝演奏会の開催
1914年の12月、私の帰朝演奏会が帝劇で催された。主催は松方公令息正作氏を会長とする東京フィルハーモニー協会だった。これは協会側の私に対するテストであった。表向きの会長は松方氏であったが、実際は天下の富豪岩崎小弥太男爵の主催なので、私としても変なマネはできなかった。皇族が十幾方も来られるというのだから、その頃の演奏会としては破天荒なものであり、それはまた、岩崎一家の顔を物語るものであった。
私は考えた末、上野の同窓を中心に、築地にあった海軍軍楽隊派遣隊の会員を加え、さらに三越音楽隊の少年楽士の参加を得て、90名からなる大編成の管弦楽団を作りあげた。出し物は私の交響曲一番「かちどきと平和」四楽章と、音詩「暗い扉」「曼荼羅の花」などとした。そのころ、三管編成も楽曲をも演れるとは誰も思っていなかったのが、立派に演奏した。
3.東京フィルハーモニー管弦楽団の立ち上げ
私の指揮者としての腕前が認められたのであろう。パトロンの岩崎男爵から欧米に引けを取らぬ立派な管弦楽団を組織するよう命じられた。その建物は、そのころ煙草王とうたわれた岩谷松平氏の煙草工場跡だった。間口10間、奥行16間の2階建てで、見かけはなかなか大したものだった。天井を張りボテにした大ホールでは150人くらいの練習もできたし、大小とり混ぜて12も部屋があるので、広さでは文句のない練習場となった。
この建物は単に音楽研究所として、存在したばかりでなく、演劇、舞踊、その他一般諸芸術のメッカともなった。石井漠も東郷青児もここでつちかわれたのだ。小山内薫の「新劇場」「土曜劇場」の研究もここでやり、高木徳子や川上貞奴もこの建物で公演の練習をしたものだ。文士も詩人も画家も俳優も、いや新しい芸術を追う人々が毎日のように蝟集しては、夜を徹していろいろな談議にふけったのだった。でも毎月1回の日本最初の定期演奏は、どんなことがあっても決行した。私は指揮者、経営者、小使い兼用だった。
山田 耕筰 | |
---|---|
1952年の山田耕筰。後ろの絵は恩地孝四郎による山田の肖像。 | |
基本情報 | |
別名 | 山田 耕作(出生名、1956年改名) |
生誕 | 1886年6月9日 日本・東京府東京市本郷 (現:東京都文京区) |
死没 | 1965年12月29日(79歳没) 日本・東京都世田谷区成城 |
学歴 | 東京音楽学校 ベルリン音楽学校 |
ジャンル | クラシック音楽 |
職業 | 作曲家 指揮者 |
活動期間 | 1914年 - 1965年 |
山田 耕筰(やまだ こうさく、旧字体:山田 耕󠄁筰、1886年〈明治19年〉6月9日 - 1965年〈昭和40年〉12月29日)は、日本の作曲家・指揮者。旧名、山田 耕作(旧字体:山田 耕󠄁作)。
日本語の抑揚を活かしたメロディーで日本音楽史に残る多くの作品を残した。日本初の管弦楽団を造るなど日本において西洋音楽の普及に努めた。また、ニューヨークのカーネギー・ホールで自作の管弦楽曲を演奏、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団やレニングラード・フィルハーモニー交響楽団等を指揮するなど国際的にも活動している。