掲載時肩書 | 映画監督 |
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掲載期間 | 1996/10/01〜1996/10/31 |
出身地 | 大阪府 |
生年月日 | 1931/09/13 |
掲載回数 | 30 回 |
執筆時年齢 | 65 歳 |
最終学歴 | 東京大学 |
学歴その他 | 小山台高 |
入社 | 松竹 |
配偶者 | 学生寮友 |
主な仕事 | 13年間中国、「下町の太陽」→喜劇、「男はつらいよ」 「学校」「家族」「息子」 |
恩師・恩人 | 野村芳太郎 ,橋本忍、城戸四郎 |
人脈 | 堤清二、浦山桐郎、大島渚(同期)、ハナ肇、渥美、倍賞、浅丘、高倉健、笠智衆、西田敏行 |
備考 | 相棒:高羽哲夫(カメラ) |
この「履歴書」に登場した映画監督は、衣笠貞之助(1964.4)、木下恵介(1987.9)、市川崑(1989.2)に次いで、氏(1996.10)が4人目である。氏は、14年間もの中国生活の経験と戦後の日本社会を広く深く見つめて、人を見る目が優しく温かい。人に対する感性がとても鋭い人だという感じを持ちました。
1.渥美清さんとの別れ
1996年8月6日、松竹の奥山融副社長との打ち合わせを終えて夜遅く帰宅したぼくは、渥美清さんの奥さんからの電話伝言を知らされた。「山田さんにお詫びしなくてはなりません。渥美は4日に亡くなりました。遺言通り家族だけで見送り、遺骨にして、今日の夕方に自宅に戻ってまいりました」と。正子夫人の言葉にどう答えたのか、よく覚えていない。受話器を置いたあと椅子に腰かけ、しばらくぼんやりとしていた。
8月13日。「男はつらいよ」48作すべてを撮影した松竹大船撮影所で、渥美さんのお別れ会が開かれた。美術監督の指導のもと、大道具や小道具さんが祭壇を作り、松竹の社員やスタッフは蒸せるような暑さの中で全国から集まった3万5千人のファンや弔問客の応対に走り回った。新聞やテレビは渥美さんを悼む報道を連日繰り返し、ぼくたちは世間の反響の大きさに驚いたのである。
2.脚本家修業
松竹入社2年目、ぼくは優秀な監督をたくさん見て、監督になれる見込みはまずない。何とかして脚本家になろうと真剣に考えた。野村芳太郎監督に相談して、名脚本家であり「構成の鬼」と言われた橋本忍さんの助手にしてもらった。2か月の間、世田谷の橋本邸に通った。仕事開始は午前10時。挨拶もそこそこに鉛筆を持つ。昼時はうどんかそばが届けられるが、それは黙って食べる。午後7時ごろになると橋本さんはようやく「さぁ、置こうか」と言ってカナタイプを片付け、ぼくは鉛筆を置いた。それまでは無駄口はなしだ。
畳敷きの広い部屋に向かい合って座り、1つのシーンを二人で書く。それは剣道の道場にも似ていて、弟子のぼくはめちゃくちゃに打ち込まれる。しかし、10本に1本か2本は面か小手を師から奪う。つまり、師がうんと頷いてぼくの書いたセリフが採用されることだが・・。「人間の集中力は精々、数分間しか続かないから頭を休めて他のことを考えたりすることは構わない。しかし、鉛筆だけは手に持って原稿用紙を見つめていろ」。その言葉を守って、師の前で汗を流しながら、ひたすら来る日も来る日も原稿用紙を睨み続けていた修行の日々を、ぼくは今胸が痛いほど懐かしく思い出している。
「脚本書きは、工場に通う工員のような仕事ですね」と橋本さんに言うと「どちらかというと農民に近いんじゃないだろうか」と彼はニコニコ笑いながら答えた。毎朝、畑に出て天気を心配し、生長の具合を観察する。雑草を抜き、肥やしをやって最後に収穫する・・・。「才能なんてあると思うな。才能というものがもしあるとすれば、それはどれだけ忍耐力があるかということなんだ」。それが橋本さんの口癖だった。
3.リリー・浅丘ルリ子さん
第48作「寅次郎紅の花」でリリーに4度目の登場をさせようと思った時、実はこれが最後になるかもしれないという予感がどこかにあった。第25作「寅次郎ハイビスカスの花」以来、15年ぶりの再会。撮影所での渥美さんがあまりに元気がないので、浅丘さんは「しばらくでした」と挨拶を交わした後、楽屋に戻り、しばらく声をあげて泣いたそうだ。奄美大島のロケ先で地元の人が開いてくれる歓迎パーティのような席も、体をいたわって欠席する渥美さんの代わりに一生懸命、愛想をふりまく気遣いぶりを見せた。繊細で優しい人である。浅丘さんは最後のマドンナになってしまった。もう一度、あと一作だけでもいい。ぼくは寅さんとリリーの恋物語を作ってみたかった。
4.教師と監督の共通点(ほめる大切さ)
「学校」の構想を練るため夜間中学を訪ね、いろいろ先生から苦労話を聞きました。その中で教師と監督に共通する部分に気づきました。それは伊丹万作監督が繰り返し語っている「俳優を叱ってはいけない。彼は一生懸命にやっているのだから」「演出者は俳優に対してはれ物に触るような心遣いを要する。なかんずく俳優が自信を喪失する誘因になるような言動は絶対に慎まなければならない」「俳優の演技を必要以上に酷評するな。それは必要以上に称賛するよりももっと悪い」。ほめるということが、どんなに大切かということは映画の現場にも教育の現場にも共通している。双方とも根本ともいうべき命題なのではないだろうか。
やまだ ようじ 山田 洋次 | |||||||||||||||||||||||
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『キネマ旬報』1962年4月上旬春の特別号より | |||||||||||||||||||||||
別名義 | 山田よしお | ||||||||||||||||||||||
生年月日 | 1931年9月13日(93歳) | ||||||||||||||||||||||
出生地 | 日本・大阪府豊中市 | ||||||||||||||||||||||
職業 | 映画監督、脚本家、演出家 | ||||||||||||||||||||||
ジャンル | 映画、テレビドラマ、舞台 | ||||||||||||||||||||||
活動期間 | 1954年 - | ||||||||||||||||||||||
主な作品 | |||||||||||||||||||||||
映画 『男はつらいよ』シリーズ 『幸福の黄色いハンカチ』 『遙かなる山の呼び声』 『息子』 『学校』シリーズ 『釣りバカ日誌』シリーズ 『たそがれ清兵衛』 『隠し剣 鬼の爪』 『武士の一分』 『家族はつらいよ』シリーズ 『キネマの神様』 | |||||||||||||||||||||||
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備考 | |||||||||||||||||||||||
第17回東京国際映画祭 審査委員長(2004年) |
山田 洋次(やまだ ようじ、1931年〈昭和6年〉9月13日 - )は、日本の映画監督、脚本家、演出家。
大阪府豊中市出身。東京大学法学部卒業。川島雄三、野村芳太郎の助監督を経て1961年に『二階の他人』でデビュー。『男はつらいよ』シリーズなど人情劇を発表し、現役でキネマ旬報ベストテンに最多入賞した監督。紫綬褒章(1996年)、文化功労者(2004年)、文化勲章(2012年)受章。日本芸術院会員。財団法人いわさきちひろ記念事業団理事長。関西大学大学院文学研究科および立命館大学映像学部の客員教授、文化学院の特別講師。日本映画監督協会会員。
妻は「平塚らいてうの記録映画を上映する会」副会長を務めた山田よし恵(1932年5月23日 - 2008年11月8日)。次女はTBSプロデューサーの山田亜樹[注 1]。
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