山田徳兵衛 やまだ とくべえ

その他製造

掲載時肩書吉徳会長
掲載期間1982/03/05〜1982/03/31
出身地東京都浅草
生年月日1896/05/14
掲載回数27 回
執筆時年齢86 歳
最終学歴
高等学校
学歴その他中央商業
入社文房具老舗 見習奉公
配偶者薬品問屋娘
主な仕事人形専門店化、「青い目の人形使節」答礼、人形芸術運動、人形病院開設、日本ひな人形協会
恩師・恩人渋沢栄一
人脈速水御舟(浅草)、三木のり平、大川橋蔵、巖谷小波、柳田国男、樫山純三、花柳徳兵衛、平田郷陽、竹久夢二、花柳章太郎、中原淳一
備考俳句:高濱虚子(師)
論評

1896年5月14日 – 1983年12月21日)は東京生まれ。実業家、人形問屋吉徳の第10代当主、人形研究家、人形師。戦前から、戦後にかけて、長く業界を代表する人物として活動し、日本人形研究会初代会長、日本玩具および人形連盟会長、日本人形協会会長、日本ひな人形協会名誉会長、浅草法人会会長などを歴任した。

1.人形つくりは分業体制で
日本人形は、すべてが一人の人形師の手に成るものではなく、雛人形を例にとっても、首は頭(かしら)師が作り、胴は胴屋が作る。その他手足を作る者、結髪、小道具屋など、さまざまなメーカーがあり、完成まで何人もの手を経るのである。また、雛段を見ての通り、屏風、ぼんぼり(主生産地は岐阜)、桜橘、雛道具(主産地は静岡)から毛氈、段を含めて、実に多種多様の品がトータルされてはじめてあの華やかな人形美の世界が構成される。
 つまり問屋の役目は、バラバラに入荷する品物を一つに集約して商品化する、いわゆるプロデューサーの立場にある。さらに、時流に合わせた新製品を企画するデザイナーであり、沢山の専属職人の気質を熟知し、自らは在庫のリスクを負っても彼らの暮らしを保障するスポンサーでもある。
 昔の人形師で面白いのは、こちらが新しいアイディアを出すと、こんな具合ですかと、いきなり小刀をとり、木をサクサクと削って原型を示すことであった。彼らには絵筆よりも小刀の方が手っ取り早いのである。

2.青い目の人形に業界が救われる
大正15年(1926)12月25日、大正天皇がおかくれになった。翌昭和2年〈1927〉は、いわゆる諒闇(りょうあん)の年で、歌舞音曲は一切お停止とあって初夏の芝居も寄席も開かず、花柳界は営業停止、また祭りはすべて取りやめとのお触れが出た。これが雛人形業界に大恐慌をきたした。
 私は当時、雛人形組合の副組合長だったので、勇を鼓して、時の文部大臣岡田良平氏に直訴し、「雛祭りは祭りにあらず」のお墨付きを取り付けた。さらに、新聞雑誌の主筆格の人々を柳橋の柳光亭に招集し、記者会見をして雛祭りの趣旨と文部省の見解を説明、マスコミの協力を要望した。しかし、悲報に沈む世間は、盛り場さえもがシーンと静まり返り、実に陰々滅々たる新春で、雛人形の不振は必至と思われた。
 ところが突如、すばらしいニュースが海の向こうからもたらされた。日米親善の使節として、米国から1万余の人形たちが日本にやってくるというのである。ニューヨークの親日家、シドニー・ギューリック博士が、日本の政財界の指導者渋沢栄一氏に呼びかけ、人形による親善を呼びかけたのである。そしてついに、全米の小学生たちの募金による12,739体の人形たちが、「日本の雛祭りに私たちも参加させてください」というメッセージとパスポートまで携えて、太平洋を越えてやってきたのである。
 文部省から今度はわれわれの組合に協力を要請された。そして新装なった青山の日本青年会館のステージに、組合特性の雛人形一式を並べ、ここに青い眼の人形たちを迎えて盛大な歓迎会を催したのち、我々の手で、全国の小学校・幼稚園へ人形を分配したのである。
 この心あたたまる出来事が、人々の心に灯をともしたのか、雛人形はにわかに活況を呈し、結局その年は何と例年をはるかに上回る売り上げを示したのだった。

3.青い目の人形への答礼
人形を配られた各地からの反響は大きく、日本の習慣として何か謝意を表したいとの声が津々浦々から上がった。これに対し担当の責任者である文部省の関屋局長は一つの妙案を思いつかれた。それは、全国の女児学童の一銭拠金を基に、都道府県、外地、および6大都市の代表人形58体を作り、これを答礼使節として全米各州に一体ずつ贈るというプランである。私は国際親善協会の渋沢栄一氏から、人形組合代表としてこの製作を一任された。
 人形はおかっぱに振りそで姿、深長80センチほどの少女人形と決まった。のちに業界ではこのおかっぱの少女人形の名称を「やまと人形」と統一している。数こそ少なくても、日本人形の技術の粋を凝らしたものを贈ろうと、私は名のある人形師を募り、コンクール形式で上位58体を選んだ。その時の一位が、まだ23歳の無名の新人、平田郷陽(のちの人間国宝)その人で、これが平田氏の名が世に出るきっかけとなった。
 人形には友禅ちりめんの衣装を着せ、鏡台、たんすなどのお道具も添えた。着付けは皇后さまの美容師、先代の遠藤波津子女史が担当した。募金の不足額は有名百貨店が負担、一体の合計額は350円の高額に上がったが、それは誠にすばらしい出来栄えであった。皇后さまからも日本の代表人形1体のご下賜を受けた。
 日本青年館の歓送式では、緞帳が上がるとステージにずらりと勢ぞろいした人形たちの可憐な美しさに、しばし拍手と嘆声が止まなかった。彼女たちは関屋氏に率いられ、米国のクリスマスのお仲間に・・・というメッセージとパスポートを胸に、その年の11月10日横浜港を旅立った。人形師の一群も、わが娘との別れを惜しむようにこれを見送った。

山田 德兵衞(やまだ とくべえ、1896年5月14日 - 1983年12月21日)は、日本の実業家、人形問屋吉徳の第10代当主、人形研究家[1][2]、人形師[3]

  1. ^ デジタル版 日本人名大辞典+Plus『山田徳兵衛』 - コトバンク
  2. ^ “山田徳兵衛 訃報”. 朝日新聞・東京朝刊: p. 23. (1983年12月23日)  - 聞蔵IIビジュアルにて閲覧
  3. ^ “山本提督へお人形さん 愛嬢の学友達が心篭めた贈物”. 朝日新聞・東京朝刊: p. 3. (1943年5月7日)  - 聞蔵IIビジュアルにて閲覧
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