山田光成 やまだ みつなり

金融

掲載時肩書日本信販会長
掲載期間1986/05/01〜1986/05/31
出身地愛知県名古屋
生年月日1907/04/22
掲載回数31 回
執筆時年齢79 歳
最終学歴
慶應大学
学歴その他慶応
入社下呂温泉・山田モト旅館創業
配偶者水谷八重子紹介
主な仕事佐治タイル、日本百貨サービス(クッレジット)、日本信用販売、JCB、不動産業、座禅堂、聾唖者愛護事業、国際宗教会議
恩師・恩人高品軍医、梶浦逸外老師
人脈徳川義親、藤田瞠、伊藤盛逸(軍教官)、岡田豊、星島二郎、高瀬荘太郎、城山三郎(モデル)、大部孫大夫、豊道春海
備考ヘレンケラー表彰、ボクシング三田 会会長
論評

明治40(1907)年4月22日~昭和62(1987)年3月24日)は愛知県生まれ。昭和期の実業家 日本信販名誉会長;全国信販協会会長;日本クレジット産業協会会長;日本アマチュアボクシング連盟名誉会長。
昭和23年名古屋百貨サービス、26年日本信用販売を創設、33年日本信用販売社長、41年日本信販と改称し、51年代表会長、のち名誉会長。わが国初の割賦販売会社を興し、風雲の草創期を味わって信販制度を定着させた。城山三郎「風雲に乗る」のモデルとして知られる。住宅産業開発協会会長を務めた。

1.信用販売の原点
「大衆のための信用販売」を、私は単なる事業欲から、この事業を始めたのではない。やらなければならない天命だと思い、この事業を始めたつもりである。給料日の5日前くらいになると、もう財布の中は空っぽで、子供たちにひもじい思いをさせなければならない。どうしてシャケの切り身を幾切れか買い、好きなビールの1本も買い、子供にはチョコレートの数枚を買って、一家団欒の楽しい夕食にすることができないのか。一生懸命働いている人には“信用”という無形の財産があるではないか。それを元に信用販売をしてもいいではないか、と私は考えた。 
 そこで、昭和23年(1948)7月、名古屋に資本金40万円で「日本百貨サービス株式会社」をつくった。それまでも、月賦販売はあったが、当座の余裕のない人のための月賦販売でしかなかった。百貨店でも、通い帳で掛け売りをやっていたが、それは金持ちのためで、大衆には現金でしか売らなかったのだ。

2.日本信用販売会社の設立
私は「名古屋を池とするなら、東京は海だ。鯨に食われるかもしれないが、どうせのことなら海で勝負しよう」と決心し、東京に出てきて、昭和24年5月、築地の懇話会館に創立事務所を設置した。この際、痛切に感じたのは、加盟店は小売店だけでは発展しない、小売店を横とするならば縦の線には百貨店が必要だということであった。
 そこで、何とか信用のある百貨店に加盟してもらおうと毎日のように足を棒のようにして歩き回った。これが2年間続いた。しかし、どこも趣旨には賛成しても、なかなか加盟はしてくれない。私もついに諦めて、名古屋に戻って全く別の事業をやろうと思いながら、念のためという気持ちで、高島屋へ行った。すると、当時営業部長だった八嶋進作さんと、その上司の東京支店長、薬師川秀三郎さん(現高島屋社長)がその場で「すぐやりましょう」と言ってくれたのである。これがきっかけとなり、多くの百貨店が加盟してくれた。
 昭和26年(1951)6月7日に東京都文京区本郷に、資本金1千万円で日本信用販売株式会社を創立。会長が星島二郎で、社長が高瀬荘太郎、私は取締役企画部長でスタートした。設立と同時に会員になってもらうため会社(職域)まわりに日夜狂奔した。大衆のための信用販売を始めるに際して、私は簡潔なキャッチフレーズをつくった。「勤続3年、妻子あり」である。こうしたサラリーマンは信用できる、という意味を込めたものであった。

3.梶浦逸外老師
昭和39年〈1964〉11月、東京・本郷に9階建ての日本信販本社ビルを建てたときには、梶浦老師に筆舌に尽くせぬほどのお世話になった。老師は44年(1969)1月に妙心寺の管長となったが、もともとは岐阜県美濃加茂市の正眼寺の住職で、私とは、私が下呂で旅館をやっていたころからの付合いだった。私が信販創設のために上京して以来、東京に来ると、いつも私の家に泊まる。
 ある時など、短期大学の経営に必要だから150万円ぐらい寄付をしてくれといきなり言い出した。私が断わると、ケチで断ると思ったのか、「そのくらいポンとだしたらどうだ」と言う。私もカッとなって「見かけで判断するな、このガンコ坊主」と怒鳴ったことがある。こんなふうに老師はいわば私の”ケンカ友達“で、本当に心を許し合った仲だった。山田無文師や立花大亀師も、梶浦老師だけは苦手のようだった。また、老師は臨済宗だが、曹洞宗大本山永平寺の秦慧玉管長は同じ五黄の申で大変仲が良かった。

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