山村雄一 やまむら ゆういち

医療

掲載時肩書大阪大学前学長
掲載期間1989/10/01〜1989/10/31
出身地大阪府
生年月日1918/07/27
掲載回数31 回
執筆時年齢71 歳
最終学歴
大阪大学
学歴その他浪速高
入社免疫学
配偶者見合い
主な仕事刀根山HP、海軍医、理学部生化学、結核空洞治療、九大生化学教授、阪大3内、ガン免疫療法、生命工学
恩師・恩人赤堀四郎教授、渡辺三郎院長
人脈吉田富三先生、岸本忠三、小川真紀雄、浜岡俊之、石坂公成、曲直部寿夫、岡田善雄、司馬遼太郎、森光子
備考天命を待って人事を尽くす、父:船長
論評

1918年7月27日 – 1990年6月10日)は大阪府生まれ。臨床免疫学者。結核を中心とした免疫学・医学研究に貢献した。1941年大阪大学医学部卒。海軍軍医学校軍医科69期14班班長を務めた後、太平洋戦争中は日本海軍の軍医として転戦。「結核菌の安息香酸代謝に就て」。1956年に国立刀根山病院内科医長、1957年に九州大学医学部生化学教授、1962年に大阪大学医学部教授、1967年に同大学医学部長、1979年から1985年まで大阪大学総長を務めた。癌の免疫療法であるBCG-CWSを作る。長男は東海大学医学部教授の山村雅一。

1.「静」から「動」への研究変化・・「新医化学」著に
昭和32年(1957)10月、38歳のとき生化学の教授として九州大学に赴任した。当時、生化学は一つの転換期にあった。それまでは一言でいえば「静的」な研究が中心だった。例えば、ある物質をネズミに注射し、尿に出てきた代謝産物を分析する、といった手法である。これに対し、注射した物質が体の中でどのように変化し、どういった臓器に集まりやすいかといったことなど、始めと終わりだけでなく、途中の動きも追いかける研究が生まれてきた。その背景にはRI(ラジオアイソトープ)技術や酵素科学の発達がある。いわば「動的」な生化学で、物質の代謝と病気のかかわりがはっきりとしてくる。
 生化学の赤堀四郎研究室にいたことが幸いして、私はこうした「静」から「動」への研究変化を敏感に感じ取ることができた。その動向を中心に原稿を書き、学生に講義し、また、市民向けの講座でわかりやすく解説したこともあった。2年間ほどかけて、「新医化学」の題で出版した。「医」、つまり人間を意識した生化学であることを強調したのだ。医学書としては珍しくベストセラーになった。

2.ガン免疫療法
昭和37年((1962)3月、43歳のとき大阪大学から第3内科の教授就任を要請された。昭和40年代になると、ガンと免疫のとのかかわりの研究が進み、免疫、特にリンパ球などが関係する細胞性免疫が、がん細胞の駆逐に重要な役割を果たしていることはっきりしてきた。細胞性免疫を高めればガンを治せるのではないか・・と、さまざまな免疫増強物質が試されていた。これが免疫療法だ。結核のワクチンであるBCGを使って体の免疫力を高め、ガンを治療しようとするのである。結核となれば刀根山病院の経験からお手のものだ。さっそくBCGの抗ガン効果を調べた。
 いろいろ試した結果、結核菌をそのまま使うのではなく、抗ガン効果のある有効成分だけを使ったら、と考えたのだ。私はこの考えを第3内科の助手であった東市郎君(現北海道大学免疫科学研究所長)に伝えた。結果はドンピシャリだった。ガンになったネズミに結核菌のCWSを注射すると、ガンの増殖を抑えた。思わず快哉を叫んだものである。

3.医学と心・・・私の願い
戦争中、別府の海軍病院にいたころ、私は実に得難い経験をした。大学では教わらなかった不思議な病状の患者を診察したのである。
乗艦が爆発して海にたたき込まれた後、全身の痛覚がなくなった人。同じように聴覚や言葉を失った人。そして、脊髄は損傷していないのに、まるで腰が抜けたように下半身がマヒした人。いずれも」「戦争神経症」である。決して詐病ではない。死への恐怖が、体に思わぬ障害をもたらしたのである。
こうした患者にはどんな手当ても功を奏さない。唯一の治療法は兵役免除を言い渡すことだ。実際、除隊し帰郷すると、病状は嘘のように消えてしまう。この体験は、私の頭の中にずっと残り続けた。我々医者は病気だけを見ているのではないか。病気の陰に隠れている患者の「心」を見ていないのではないか、と。こうした中で、医学は「人間」とその「心」を大切にすることを忘れてはならない。これは私の願いである。

山村 雄一(やまむら ゆういち、1918年7月27日 - 1990年6月10日)は、臨床免疫学者[1]

結核を中心とした免疫学・医学研究に貢献した[1]。長男は東海大学医学部教授の山村雅一[2]。孫は吉本新喜劇信濃岳夫

  1. ^ a b 岸本進「故 山村雄一先生を偲んで」『アレルギー』第39巻第7号、日本アレルギー学会、1990年、636-638頁、doi:10.15036/arerugi.39.636 
  2. ^ 朝日新聞 1990年6月11日夕刊
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