掲載時肩書 | 画家 |
---|---|
掲載期間 | 1978/09/21〜1978/10/16 |
出身地 | 東京都 |
生年月日 | 1900/04/15 |
掲載回数 | 26 回 |
執筆時年齢 | 78 歳 |
最終学歴 | 東京藝術大学 |
学歴その他 | 府立工芸高校 |
入社 | 美大研究科 |
配偶者 | 記載なし |
主な仕事 | 酒癖、松岡塾、国定忠治劇、美校助教授、女子美校長、「創造美術」→新制作協会→創画会 |
恩師・恩人 | 松岡映丘 |
人脈 | 武見太郎(貸家)、美濃部亮吉、岡鹿之助(父友)、杉山寧(下)、山口蓬春、上村松篁、高山辰雄、福田豊四郎、吉岡堅二、橋本明治 |
備考 | 癇癪持ち |
1900年(明治33年)4月15日 – 1986年(昭和61年)2月10日)は東京市に生まれる。日本画家。府立工芸を経て、1924年(大正13年)東京美術学校卒業。その後松岡映丘に師事。1944年(昭和19年)東京芸術大学助教授、1947年(昭和22年)女子美術専門学校(現女子美術大学)教授に就任、多数の後進を育てる。
1.東京美術学校の試験
美校の試験で、実物の花を毛筆で形の線を引き、色を塗らせるという出題は、結城素明先生の発案に始まるといわれる。洋式の手法を採用してそうしたのだそうだ。それ以前は付立(つけたて)といって、物の輪郭など線描きせずにいきなり描く筆づかいをさせ、入試の判定をしたと聞く。
結城先生発案の方法は、ずっと続いたが、私が美校で教える立場になった時、同じ日本画科の安田靫彦先生や小林古径先生に諮って、あれはやめましょう、ということにした。代わりに鉛筆デッサンとか鉛筆淡彩とかいろいろな方法が用いられたが、鉛筆で細かく写させるのがよいか、毛筆で要所を線描きさせるのがいいか、今になってみると、よくわからない。
それに近年は学科の成績も重く見る。作文を出し、名前が書けていれば内容など問わなかったような、私の受験期と違って、ずっと知識に頭を使わせるようになった。しかし絵描きが小利口になっても始まるまい。学科も、あまり重く見るのは、どうかと思う。
2.松岡映丘教授の指導
先生は、美校の教室ではデッサンを見て、批評をし、皮肉を言うぐらいで、細かいことは何一つ言わない。では、私宅に行くと、細かいことを教えてくれるかというと、今度はがらりと違って大和絵のことばかりだった。
それは源氏物語絵巻から始まり、仏画や合戦絵巻や能に取材した絵まで、所蔵の模写、写真版、実物などを前にして、ここが優れている、こういう描き方は今はないが学ぶべきところであると、講釈してくださる。時には博物館に一同を連れていき、陳列品を前に大和絵の講義である。高等であった。私などついていけないと思った。先生の話を聞いていると、絵を見ているだけではだめで、文学も知らなくてはいけないし、源氏物語や能狂言も読んで、心得ておかなければいけない、とのことであった。私には近寄りがたかった。
3.「創造美術」旗揚げ・・昭和23年(1948)1月
「我等は世界性に立脚する日本絵画の創造を期す」というのがスローガン、宣伝文には、「在野精神に立脚して官展に関与せず」の一項もいれた。こういう作文をしたのは福田豊四郎さんだったと思う。元気のいいものであるが、いまになってみると、子供っぽい感じもする。
結成したこの在野団体は、「創造美術」。それまでの隠密行動をやめ、世間に姿を見せたのが、昭和23年1月26日、小雪の降る寒い朝だった。
公表の場所は、東京・日本橋の三越横にあるレストラン。知り合いだったので、そこを借りた。創立同志として、当日集まったのは、東京方が、福田豊四郎、吉岡堅二、橋本明治、加藤栄三、高橋周桑、そして私。京都方が、上村松篁、菊池隆志、向井久万、奥村厚一、秋野不矩、沢宏靭、広田多津、全部で13人。私と高橋周桑さんが最年長で47歳だったが、あとはみな30代という若さだった。
在京各新聞社の人に来てもらって、スローガン以下、宣伝文を読み上げた。そこにこぎつけるまで、ずいぶん手間と暇をかけたが、名乗ってしまえば、あとは事務的に展覧会を行うだけであった。