掲載時肩書 | 前衆議院議長 |
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掲載期間 | 1966/12/03〜1966/12/31 |
出身地 | 長崎県 |
生年月日 | 1897/05/11 |
掲載回数 | 29 回 |
執筆時年齢 | 69 歳 |
最終学歴 | 早稲田大学 |
学歴その他 | 専門部中退 |
入社 | 自営業 |
配偶者 | 佐世保高女娘 |
主な仕事 | 学生で放蕩、宮崎開墾、投機失敗2度、木材商、県議、衆議員、大臣、衆議院議長 |
恩師・恩人 | 秋田実中学校長 |
人脈 | 砂田重政、鳩山派、河野一郎、辻嘉六、益谷秀次、林譲治、星島二郎 |
備考 | 母・私の獄中に選挙主導 |
1897年5月11日 – 1981年5月6日)は長崎県生まれ。政治家、第52代衆議院議長(在任期間・1965年12月20日 – 1966年12月3日)。戦後は日本自由党の結党に参加し、その後は民主自由党・自由党・自由民主党に所属した。主に議会運営・国会対策畑で活動した。1949年第3次吉田内閣国務大臣、保守合同後は1958年第2次岸内閣に国務大臣(行政管理庁長官兼北海道開発庁長官)として入閣。1965年、船田中の後任として衆議院議長に就任したが、当時不祥事で問題となっていた、手形割引業者東京大証・水野繁彦社長の結婚式で仲人を務めていたことが発覚し、翌年1966年辞任を余儀なくされた。
1.開墾王を目指す
大正7(1918)か8年頃、宮崎県から現在の飯野町の7百町歩(約700ヘクタール)の開墾事業の話が持ち込まれた。当時、私は23歳、若く見られまいとあご髭をたくわえていた。この不毛の地を開墾した暁には、山分けという条件である。私は学生時代に読んだセシル・ローズの伝記を思い出した。よし、これだ。これこそ男子一生の仕事とばかり、叔父や石橋という金持ちを口説き落とし、私なりに父から残された財産、家屋敷を九十九島銀行にぶち込んで、飯野村に出かけた。
工事計画は霧島山の山腹、白鳥温泉の麓から湧き出ている250か所の水源から、この飯野村まで約6km引き入れ、灌漑用水を流してこの土地をうるおそうという試みである。しかし、それまでには200mと250mのトンネルを2本掘らねばならず、その上、川を越え鉄道を越えるためにサイホンを設置せねばならなかった。明日の開墾王を夢見て約1年半、これと取り組んだ。工事がいよいよ終わりになったとき、大台風が襲来した。嵐の中を駆け付けてみると、流れ落ちた大量の雨水が、1号トンネルをつぶし、そこに堰き止められた濁水、土砂が次のトンネルをつぶし、山津波となって、サイホン、鉄道をひっくり返してしまっている。茫然自失、一夜にして成金転じて歩になってしまった。とても再起できない。私たちは夜逃げ準備をした。
2.材木商では利益を
大正12年(1923)の夏、私は九州出身の先輩、今里準太郎氏とともに北海道、樺太の木材伐採、輸入の仕事に携わることになった。現地の買い付け・積み出しが終わり、東京でその到着を待っていたとき、関東大震災が起きた。すぐさま東京から大阪に到着すると、どうやら私は東京から大阪入りした最初の人間であったらしい。時はまさに大震災直後である。木材は復興資材として、真っ先に必要なものだ。大阪の三井物産が「全部こちらで引き取ろう」ということになった。たしか、時価の2倍半か3倍で売れたように記憶している。そればかりでなく、私は和歌山県の吉野丸太、杉の足場丸太などをどんどん芝浦へ仕向けた。
3.私の在監中に母が選挙主導
昭和10年(1935)10月5日、刑務所にいる私に看守が弁当の差し入れ口から手が出て、一枚の紙片が差し出された。見ると「県会議員当選証書である。私は体に勇気が湧いてくるのを覚えた。しかし、未決に入れられたままで、選挙運動一つできなかった私だ。にもかかわらず、県会議員に当選している。それが私には不思議でならなかった。「刑務所に入れられている私を応援する人があったのですか」と訊くと、看守は「おばあちゃんがやったんだぞ」と言った。「私は山口喜久一郎の母親です。私のおなかから出た子供に、悪いことをする者はおりません。罪になるような子は、産みやしません。断じてご信頼ください、と言って頑張ったんだ」と。私はポロポロと泣いた。
このように私の母は強烈な人間性、母性愛を持った人で、正しいことの前には一歩も引かぬ負けじ魂と茫洋(ぼうよう)たる性格は、私の心の中に深く宿っているのである。
山口 喜久一郎 やまぐち きくいちろう | |
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生年月日 | 1897年5月11日 |
出生地 | 長崎県佐世保市 |
没年月日 | 1981年5月6日(83歳没) |
出身校 | 早稲田大学専門部 |
所属政党 | 立憲政友会 日本自由党 民主自由党 自由党 自由民主党 |
第52代 衆議院議長 | |
在任期間 | 1965年12月20日 - 1966年12月3日 |
天皇 | 昭和天皇 |
内閣 | 第2次岸内閣 |
在任期間 | 1958年6月12日 - 1959年6月18日 |
第5代 賠償庁長官 | |
内閣 | 第3次吉田内閣 |
在任期間 | 1949年3月11日 - 1950年6月28日 |
内閣 | 第3次吉田内閣 |
在任期間 | 1949年2月16日 - 1949年3月11日 |
選挙区 | 戦前・和歌山県第1区→全県区→ 旧和歌山県第1区 |
当選回数 | 11回 |
在任期間 | 1942年4月30日 - 1969年12月2日 |
山口 喜久一郎(やまぐち きくいちろう、1897年5月11日 - 1981年5月6日[1])は日本の政治家、第52代衆議院議長(在任期間・1965年12月20日 - 1966年12月3日)。長崎県佐世保市出身(選挙区は和歌山県)。栄典は勲一等旭日大綬章、佐世保市名誉市民。