掲載時肩書 | 琉球政府行政主席 |
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掲載期間 | 1970/12/03〜1970/12/31 |
出身地 | 沖縄県 |
生年月日 | 1902/12/13 |
掲載回数 | 29 回 |
執筆時年齢 | 68 歳 |
最終学歴 | 広島大学 |
学歴その他 | 沖縄師範 |
入社 | 沖縄女子師範高 |
配偶者 | 友人妹 |
主な仕事 | 台湾二中、台湾師範、知念校長、文教部長、教職員会長、全国行脚、主席公選、 |
恩師・恩人 | |
人脈 | 山中貞則(教え子)、松岡政保、仲宗根政善、大浜信泉、喜屋武、佐藤栄作 |
備考 | 娘ひめ ゆり戦死、感動(同行)教育 |
1902年12月13日 – 1997年2月14日)は、琉球政府および沖縄県の政治家、教育者。沖縄戦後、沖縄群島政府文教部長、沖縄教職員会長などを歴任の後、1968年の行政主席選挙では革新共同候補として立候補し、保守系の西銘順治との選挙になったが、本土への早期復帰を訴えた屋良が当選し第5代行政主席に就任する。1968年11月から唯一の公選行政主席として沖縄の日本復帰までその職にあり、復帰後は沖縄県知事を2期務めた。知事を退いた後も、沖縄の伝統的な保革対立の中で、革新陣営のシンボル的存在として革新共闘会議を主導し、後継の知事候補として平良幸市を応援するなどした。
1.師弟同行の教育
台湾の台南二中のころ私は厳しい教師でよく生徒を叩いていた。しかし生徒たちはよくついてきてくれた。私は身をもって指導するのが教育と思い、寒げいこ、一万m競走、酷暑下の強行軍なども常に先頭に立って生徒と行動を共にしていた。だから私の学級は参加率もよく、普通出席率の悪い5年学級でも、ある学期のごときは欠席者ゼロということがあったほどだ。
昭和18年(1943)、6つの師範学校が3つに統合されると、私は台湾総督府の命令で台北師範に転任を命ぜられた。中学の校長やみんなの引き留めもあったが、師範学校で教えれば生徒がまた教師となり波及していくと考え、科学教育にもさらにやり甲斐があると思い転任を受諾した。18年3月、出発の時が来た。台南駅には全校の生徒が見送ってくれた。すべるように汽車が走り出すと、怒涛のように汽車を追いかけてくれる。こんな純粋な生徒の気持ちに、家内と二人思わず目頭を押さえたものでした。
2.廃墟の沖縄
昭和21年(1946)12月末に、台湾から廃墟の沖縄に戻って来た。昭和20年4月1日、本島西岸に上陸した米軍は、物量にモノを言わせて“鉄の暴風”と言われた攻撃を続け、6月23日までの凄絶な戦闘のなかで、日本兵約11万人、米兵約1.2万人の死者を出したばかりでなく、50万人の県民30%に当たる約15万人を犠牲にしたのである。当時師範女子部に在学していた娘は、あのひめゆり部隊に参加、犠牲になっていた。親族や友人の消息を尋ねると、多くの人が戦死していた。
夜になると酒を飲み、歌三味線で舞興じている場面がよく見られた。その有様は戦争で多くの肉親縁者を失い、涙に暮れている人々の生活とは思えなかった。全く虚無虚脱の状態といおうか、それほどに人の心も荒んでいた。私はこんな非常事態こそ、教育者は決意を新たにして立ち上がらねばならないのだと説いて回ったのだった。
3.米軍基地の存在
この存在は、子供の世界に大きく反映した。社会の不健全さは少年の不良化に拍車をかけ、米兵による犯罪や交通事故の被害者も続出した。昭和28年(1953)12月、教職員会は「子どもを守る会」を結成し、私が会長となった。昭和30年9月、石川市で由美子ちゃん(6)が米兵に拉致され暴行殺害される事件が起こった。さらに31年には佐敷村で6人の少女が米軍乗用車にひき殺され、34年には石川市の富森小学校に米軍ジェット機が墜落、200人近い死傷者と民家30数戸が焼け落ちた。私はすべて大人の共同の責任で子供を守る心構えと体制が必要であると思い、琉球政府や米軍への働きかけを強め、活動を続けた。
4.土地闘争は軍用犬で鎮圧された:
朝鮮戦争と共に基地はさらに拡張された。昭和30年3月、宜野湾市伊佐浜の水田地帯に米軍は強制収用をかけた。収用期限が切れた7月19日未明、武装200名が付近の交通を遮断したうえ、家屋を壊し抵抗する農民を捕えて小学校に収容した。また、4月の伊江島の強制収用では、子供や女たちが泣き叫び、農民たちが「一坪たりとも渡さないぞ」と叫ぶ中で、午後4時、米軍は軍用犬12頭を放った。そして島民は四散させられたのだった。
屋良 朝苗 やら ちょうびょう | |
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生年月日 | 1902年12月13日 |
出生地 | 日本・沖縄県中頭郡読谷村 |
没年月日 | 1997年2月14日(94歳没) |
死没地 | 日本 沖縄県那覇市 |
出身校 | 広島高等師範学校 (現:広島大学) |
所属政党 | (沖縄社会大衆党→) 無所属 |
当選回数 | 2回 |
在任期間 | 1972年5月15日 - 1976年6月14日 |
当選回数 | 1回 |
在任期間 | 1968年11月15日 - 1972年5月14日 |
屋良 朝苗(やら ちょうびょう、1902年(明治35年)12月13日 - 1997年(平成9年)2月14日)は、琉球政府および沖縄県の政治家、教育者。1968年11月から唯一の公選行政主席として1972年5月まで沖縄の日本復帰までその職にあり、復帰後は沖縄県知事を2期務めた。