掲載時肩書 | 作家 |
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掲載期間 | 1963/06/27〜1963/07/24 |
出身地 | 愛知県 |
生年月日 | 1898/02/05 |
掲載回数 | 28 回 |
執筆時年齢 | 65 歳 |
最終学歴 | 早稲田大学 |
学歴その他 | 早大予 |
入社 | 東洋経済 |
配偶者 | 宇野千代 |
主な仕事 | 漱石「本」中学4年「学生論」、社会主義的思想、東京毎日、「空想部落」「人生劇場」 |
恩師・恩人 | 石橋湛山、田中貢太郎 |
人脈 | 今東光、加藤勘十、横光利一、大杉栄、荒畑寒村、菊池寛、山本周五郎、川口松太郎 |
備考 | 一時期、アル中 |
1898年(明治31年)2月5日 – 1964年(昭和39年)2月19日)は愛知県生まれ。小説家。早稲田大学政治科在学中に社会主義運動にかかわり、大学を中退。大逆事件真相解明の目的で売文社に拠る。同社を本拠に活動していた高畠素之を追って国家社会主義に身を投じる。1921年(大正10年)に時事新報の懸賞小説で、大逆事件を取材した『獄中より』が第二席で入選し、以後本格的に小説家として身を立てるようになる。1933年(昭和8年)から都新聞に『人生劇場』を連載し、文芸懇話会賞を受賞。これが大ベストセラーとなって以後20年以上も執筆し続ける大長編となる。その一方で戦前に雑誌『文芸日本』、戦後に『風報』を主宰した。
1.学生弁論大会
中学4年の秋、私は初めて開催された学生弁論大会で、講堂をうずめた全学生と教師とを前にして「学生論」という題で自分の意見を述べた。これは、相当以前から、自分で計画していたもので、いわゆる武断派の学生と、軟派の学生とを一緒くたにして、彼らの生活態度を難じ、学生の本質を明らかにしたものです。
ところが、私が演壇を降りると、そのすぐ後である。恐ろしい剣幕で演壇に登ったのは、思いがけぬ新任校長だった。不機嫌な面構えで満堂を見まわし、それから徐々に、今日の計画は必ずしも賞揚すべきものではないが、学生の弁論だけについて言えば、尾崎士郎の意見を除くほかは、みんなそれぞれ真面目であり、傾聴すべき言論であったと長々と述べた。聴衆はみんな、シーンとしてしまった。
もちろん私は、すぐ立ち上がった。すぐ校長に迫って、私の演説のどこが悪かったのか指摘してもらいたいと言って頼んだ。校長はこれに対して明快な返事をせず、言葉を濁したまま降壇してしまった。私が、岡崎中学に対してではなく、当時の教育制度と教師の態度に反感を感じるようになったのはこれからである。
2.売文社の実態
私は大逆事件真相解明の目的で売文社に関与することになる。この社は、世を忍ぶ仮の名で、此の処に幸徳事件残党の拠点があった。しかし、その営業ぶりは、実に完備したもので、当時の定款の一部を、そのまま掲出してみよう。
(1)新聞雑誌、書籍等の原稿作成、論文、小説、記事文(ルポータジュ)、文章の立案、演説原稿、欧文和訳、和文欧訳、漢文作成、カタログの編集、広告文案、意匠図案、校正、タイプライター、料金など
この社には、これに付随したもう一つの営業種目があった。それは「浮世顧問」というふざけたもので定款では次のように記されている。
(2)処世の工夫、立身の方策、生活の困難切り抜け法、家庭の不和、恋愛の難局突破、その他:紛争争議、過失、災害、百般の心配、苦悩、煩悶、懊悩、疑問等に関して即決解答、助言、解決、1時間1円。
社長は堺枯川氏で、社の幹部は山川均、荒畑寒村、高畠素之の3氏だったが、二階の事務所に上がるとまるで大学の研究室みたいな感じだった。
3.悲惨なアル中時代
私は昭和17年(1942)11月、極度の疲労と衰弱によって生じた胃潰瘍のため、軍宣伝班としての任務を課せられたまま、内地へ帰還した。1年間、酒を禁じられたが、快方の向かうにつれ強烈な胃酸過多症に陥り、それから4,5年間、悩み続けているうちに、いかなる薬も効果なく、僅かに酒を飲んでいる間だけ苦痛を忘れられた。酒量は急速に増加し、終戦間際になって伊豆伊東に疎開してからは、連日連夜、酒を飲み、酒のない時は、クミチンキやアルコールを水で薄め、それもなくなってくると、ガソリンの匂いのするブタノールまで、いろいろ細工して飲んだ。ヒステリーの鎮静剤は水で薄めるとビールの香りがするので内山雨海君と二人で飲み干すと、だしぬけに悲しくなり、ふたりが抱擁して、声を出して泣き出してしまったこともある。