尾上松緑 おのえ しょうろく

映画演劇

掲載時肩書歌舞伎俳優
掲載期間1975/12/07〜1975/12/31
出身地東京都
生年月日1913/03/28
掲載回数25 回
執筆時年齢62 歳
最終学歴
小学校
学歴その他
入社
配偶者芸妓
主な仕事長兄(11代市川團十郎)、次兄(8代幸 四郎)、息子(辰之助)、テレビ、新劇、宝塚演出
恩師・恩人6代目 尾上菊五郎
人脈大川橋蔵(襲名候補)、藤間流家元、 古典、世話物、新作、舞踊、小津監督、バワーズ
備考父:7代目 松本幸四郎
論評

1913年(大正2年)3月28日 – 1989年(平成元年)6月25日)は東京・日本橋浜町に生れ。歌舞伎役者。屋号は音羽屋。六代目尾上菊五郎の薫陶を受け、恰幅のいい体つきで時代・世話を問わず立役として活躍した。踊りの名手としても知られ、日本舞踊藤間流の家元として四世藤間勘右衛門を名乗った。七代目松本幸四郎の三男として生まれ、長兄が十一代目市川團十郎、次兄が初代松本白鸚。四代目中村雀右衛門は義弟にあたる。三味線奏者の三代目・今藤長十郎はいとこ。

1.祖父(勘翁)の踊りのけいこ指導
6歳6月6日から踊りのけいこをさせられた。祖父の恐ろしさはいまだに忘れられない。祖父はふだんは優しい好々爺で、夜寝るときなども「おやすみなさい」を言いに行くといつも「あいよ」とニコニコ笑ってお菓子をくれる。
 そんな優しい祖父が踊りの稽古になると人が変わったように怖くなる。いつもムチを持っていて、ちょっとでも間違えるとピシリとくる。何かの拍子にちょいと祖父の顔を見ようものなら「おれの顔に踊りが書いてあるのか!」とどなられる。こうして祖父に初歩の舞踊「勢い」の手ほどきを受けた。

2.おじさん(六代目菊五郎)の指導
勉強芝居で「草摺引」をやることになった。この稽古で六代目おじさんに徹底的にしごかれた。寒中に開口一番「裸になれ」といわれてびっくりした。そうするとおじさん自身もパンツ一枚になる。
 まず私の骨組みを見て、舞踊の基礎から始めようというわけだ。当時私はまだ帝劇の子役時代から抜け出したばかりで、踊りの「お」の字も知らなかった。そこでまず腰の据え方、筋肉の使い方から訓練してくれたわけだ。
 おじさんの口三味線と唄で踊っていくうち「通らんせ」で両手を上げて後ろへ反り返るところへ来ると、おじさんは突如私の腰に膝を当て、背骨の後ろから両肩に手をかけて力まかせに引っ張る。私の肩の骨がベキベキベキと音を立てる。そして「そのままにしてろ」というのだ。これは形としては手を後ろへ開きすぎているわけだ。つまりオーバーなのだ。だが、このオーバーなところを教えておいて、その痛さを覚えこませておけば、今後自分一人で踊った時に、その痛さのところで止めればちょうどいい形になるわけだ。まず痛さ、苦しさを教え込むのだった。
 何回もこのスパルタ方式をやっているうちに、同じ後ろへ手を回すにしても、足を折るにしても、今までの倍も動くようになって力も入り、いわば究極の形ができるようになるのだ。

3.演出の違い(歌舞伎、新劇、宝塚)
宝塚歌劇の演出もやらされた。歌舞伎の稽古は古典物だとみんな型が大体頭に入っているので、それを追っていけば4,5日ででき上がるが、新劇や宝塚だと全然雰囲気がちがい、稽古は1か月かかる。歌舞伎は「本読み」「平げいこ」「総ざらい」「舞台げいこ」となり、笑ったりすることは許されない。宝塚は初めから本意気で入り、おかしいところは大いに笑い、立ちげいこ、総げいこになると泣く人は泣く、笑う人は笑い、盛り上がったところで手をたたいてもいいことになっている。私はこれでいいと思っている。そんなわけで宝塚の場合は初日が開く前に大体反響の見当がついてしまうのだ。

四ツ輪に抱き柏
藤輪に花菱

尾上 松綠(おのえ しょうろく、新字体:松緑)は、歌舞伎役者の名跡屋号音羽屋定紋は四ツ輪に抱き柏、替紋は藤輪に花菱。

「松緑」は初代尾上松助の俳名に由来する。後に松助はこれを名跡とし、晩年の6年間「尾上松緑」を名乗った。

  • 初代 尾上松緑
    • 初代尾上菊五郎の門弟、1744–1815。父親は大坂祇園で小芝居の裏方をしていた徳次郎なる人物といわれるが、江戸生まれという説もありその出自については不詳。
    • 初代尾上松助 → 初代尾上松緑
  • 四代目 尾上松緑
    • 三代目の長男、1975– 。当代。
    • 二代目尾上左近 → 二代目尾上辰之助 → 四代目尾上松緑
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