掲載時肩書 | 俳優 |
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掲載期間 | 1971/11/07〜1971/12/03 |
出身地 | 東京都 |
生年月日 | 1889/09/21 |
掲載回数 | 27 回 |
執筆時年齢 | 82 歳 |
最終学歴 | 小学校 |
学歴その他 | |
入社 | |
配偶者 | 浅草芸妓 |
主な仕事 | 鬼丸、男役・女形OK、連鎖劇(映画+芝居)、多賀之丞、吉原2月 (上方、江戸狂言、時代物、世話物) |
恩師・恩人 | 6代目尾上 菊五郎 |
人脈 | 叔父:浅尾上左衛門、源之助(恩人)、鏑木清方、山川金太郎、井上正夫 |
備考 | 酒一升 |
1889年(明治22年)9月21日 – 1978年(昭和53年)6月20日)は東京生まれ。戦前戦後にかけて活躍した歌舞伎役者。小芝居で花形役者として活躍するが、その才能を六代目尾上菊五郎に見出され、1921年(大正10年)10月市村座の『網模様燈篭菊桐』(小猿七之助)の滝川で菊五郎一座に女房役として迎えられる。女形の名脇役として、六代目菊五郎から、二代目松緑、七代目梅幸を経て七代目菊五郎と、音羽屋三代の相方を勤める。晩年は後進の指導に当っていた。
1.昭和初期の歌舞伎劇場
昭和の初め頃までは全国に劇場がたくさんあって、それぞれ歌舞伎をやっていました。今から考えると隔世の感があります。まず、東京でいうと歌舞伎座、新富座、明治座、丸の内の帝国劇場、春木屋(本郷座の前身)、市村座などを大芝居といい、そのほか中芝居、小芝居が方々にありました。浅草には宮戸座、駒形劇場、常盤屋、柳盛座、深川には深川座、本所の寿座、神田の東京座と三崎座(後の神田劇場)、赤坂には演技座、日本橋中洲には高砂座、早稲田に早稲田座等々、盛り場各区に2つ以上ありました。
こんなにたくさんあっては役者の数が足りず、私も一人で三座かけ持ちということがよくありました。
2.東西の芸風違い
関西と東京の違いは、東京は女形は女形、立役は立役、三枚目は三枚目とだいたい専門化しているのに対し、関西は一つの役にこだわっているのは無器用な役者だ、役者である以上は何でもやらなければいけない、という気風がありました。私も恩人の叔父が関西の芸風でしたから、この影響を受けました。
私の場合、ワキ役から徐々にいい役をやらされました。「忠臣蔵」でいえば若狭之助、石堂、千崎弥五郎、力弥、「梅忠」のおえん、「伊勢音頭」の万次郎、「髪結新三」の忠七、「助六」の白玉、「弁天小僧」「寺子屋」のよだれくり、といったぐあいで、そのほか舞踊新作物等々、女形は源之助さん、立役は勘五郎さん、叔父をはじめ先輩の所へ稽古に行き、手当たり次第にぶつかりました。
3.吉原でおつりを
私の吉原通いが女形の大先輩・源之助さんに知れて、「女と遊ぶのはいいが、お釣りをもらってきたかい」と言われた。私は驚いて「お釣りなんかもらって来ません」と申しますと「お金のお釣りじゃないよ。吉原で遊んでも芸者買いをしても遊ぶばかりが能じゃない。おいらんなら花魁が、芸者なら芸者がどんな立ち振る舞いをするか、よく見てきたかと聞いているんだよ」と。
この源之助さんの言葉は今でも忘れません。花魁や芸者が座敷へ入って来てまず何をするか、酌の仕方、足の崩し方、男にデレデレする時の恰好、そういう仕草をよく見ておいて自分の舞台の勉強をしろというわけで、ただ金を使って遊んでくるのは役者の遊びではない、というこの教えは身に沁みました。
早い話が、私は現在老女形ですから、今でも電車に乗っても、街を歩いても、おばあさんがそばにいると、そのおばあさんはどんな顔をしていて、どんな風にシワがよっているか、また残酷な話ですが電車が急停車した時どんな風にころぶか、どんなクセがあるのか、ということを細心に観察して頭に入れておきます。
そして何かの役の時に応用するわけです。つまり自分の引き出しを作っておいて、そこへいろいろ見たこと聞いたことをため込んでおくわけで、これを仕入れといっております。
4.三代の手を引く
「鏡獅子」の老女でとうとう三代の弥生の手を引きました。まず師匠の弥生の手を引き、そして息子さんの梅幸さんの手を引き、そのまた息子さんの菊之助さんの手を引いたので三代となりました。30も年下の人の女房になるとは役者ならのことです。ありがたいことです。
尾上 多賀之丞(おのえ たがのじょう)は、歌舞伎役者の名跡。屋号は音羽屋。定紋は菊鶴、替紋は重ね扇に多の字。