掲載時肩書 | 東京大学名誉教授 |
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掲載期間 | 2003/02/01〜2003/02/28 |
出身地 | 愛知県 |
生年月日 | 1926/09/19 |
掲載回数 | 27 回 |
執筆時年齢 | 77 歳 |
最終学歴 | 東京大学 |
学歴その他 | 一高 |
入社 | 東大助手 |
配偶者 | 松下康雄紹介娘(美術学芸員) |
主な仕事 | ロチェスター大(博士)、気球cap(宇宙線)、 カミオカンデ、素粒子ーニュートリノ―宇宙 |
恩師・恩人 | 金子英夫、朝永振一郎 |
人脈 | 上田耕一郎・松下康雄(学友)、山路敬三(同期)、天野禎祐校長、南部陽一郎、茅誠司総長,戸塚洋二、梶田隆章、辻久子、遠藤周作 |
備考 | 父陸軍教官、仲人:朝永振一郎 |
1926年〈大正15年〉9月19日 – 2020年〈令和2年〉11月12日)は愛知県生まれ。物理学者、ニュートリノ天文学を開拓した天文学者でもある。東京大学や東海大学にて教鞭を執った。1987年、自らが設計を指導・監督したカミオカンデによって史上初めて太陽系外で発生したニュートリノの観測に成功した。この業績により、1989年に日本学士院賞を受賞し、2002年にはノーベル物理学賞を受賞した。晩年は、ノーベル物理学賞の賞金などを基にして平成基礎科学財団を設立し、科学の啓蒙活動に取り組んだ。
1.宇宙観測を地下で観測
目に見えない粒子を観測するため科学者はいろんな工夫をする。私が初めに手掛けた原子核乾板もその一つだが、技術進歩と共に次々と新手が出てくる。東大の研究室でも最初は、宇宙線に露出させた乾板を現像し顕微鏡でのぞき粒子の飛跡を調べていた。次にエレクトロニクスを使った実験を始めた。これはまず物理教室教授の西川哲治さん(前東京理科大学学長)のグループと「ストリーマーチェンバー」という粒子観測器をつくり、宇宙から降ってくるクオークを捕まえようとした。クオークは陽子や中性子を形作る大もとの素粒子として存在が指摘され始めていた。
次にやったのがミュー粒子の地下観測だ。ミューは電子の兄貴分のような粒子だ。重さ(静止質量)が電子の200倍あることのほかは電子とそっくりな粒子で、宇宙から降り注ぐ。初めはなぜこんな粒子が存在するのか理解できなかった。私の予測では、宇宙線が高層大気の窒素原子などと衝突、これが引き金になって高エネルギーのミュー粒子ができる。ほかの粒子が届かない地下深い場所で観測すれば、ミューが幾つもの束になって降り注いでいるのが見えるはずだ。そう考えて検出器をつくり神岡鉱山(岐阜県神岡町)に持ち込んだ。これが私と神岡とのなれそめだ。
2.17万年前のニュートリノをキャッチ
カミオカンデは1983年(昭和58)7月から水を張り始め、9月からデータを取り始めた。直径が16・5m、高さが16mの円筒形タンクに満々と水をたたえる。タンクの内壁には、光電子倍増管が所狭しと取り付けてある。カミオカンデという名のうち、カミオカはもちろん装置のある岐阜県神岡に由来する。ンデ(NDE)は核子崩壊実験(ニュークリオン・ディケイ・エクスペリメント)、つまり陽子が壊れるのを観測する実験という意味で最初は名付けたのだが、今ではニュートリノ観測実験(デテクション・エクスペリメント)と思っている人が多い。それは決して間違いではない。私たちはカミオカンデをニュートリノ観測用に大改造したからだ。
陽子崩壊を見るための装置で天体観測ができることを不思議に思う読者もいると思うので少し説明する。キーワードは「チェレンコフ光」だ。陽子が壊れるときに生まれる素粒子は電荷をもっていれば水中を走って光を発する。これをチェレンコフ光と呼ぶ。発見したロシアの物理学者の名を冠している。
改造は86年までに終わり、何とか太陽からのニュートリノを拝めそうになった。運転開始は87年1月から。そして誰も予想していなかったことが起きた。大マゼラン星雲で17万年前に起きた超新星爆発で四方八方に拡がった光やニュートリノが地球に到達したのは2月23日。私が東京大学を退官する1か月前のことだった。
日本時間で1987年2月23日午後4時35分。11個のニュートリノがカミオカンデの水タンク内で電子に衝突、発生したチェレンコフ光を光電子増倍管が捕らえていた。理論計算では地球上の1平方センチあたり約100億個ものニュートリノが降り注いだはずである。そのうちわずか11個。いかに捕えがたいものであるかがわかる。カミオカンデのデータから、ニュートリノには重さ(質量)があり、3種類のタイプが入り交じる「振動」現象の存在が強く示唆されていた。物理学上極めて重要なこの問題に日本で決着をつける実験をやるべきだと話した。
氏は‘20年11月12日、94歳で亡くなった。この「履歴書」に登場は’03年2月の77歳のときでした。ニュートリノをわかり易く解説してくれたり、仲人の朝永振一郎教授との秘話、ニュートリノ研究から数年内にノーベル受賞者が出ると予言してくれた。
1.ニュートリノとは
この名はイタリア語で「小さな中性の粒子」という意味だ。中性はプラスの電気もマイナスの電気も持たないということだ。
人類は古くはギリシャ時代から万物の根源となる基本構成要素を追い求めてきたが、ニュートリノは物質の元である原子を構成する、そのまた元の基本粒子の一つと考えられている。人類が極微の世界をより深く知るためにも重要な手掛かりになる粒子だ。
1963年(昭和38)、東京大学物理学教室に赴任した時のことだ。私は大学院での最初の講義で黒板の一番右端に「素粒子」と書き、左の端には「宇宙」と書いた。そして「この2つの分野は今急速に理解が深まっているのだが、その2つを関係づけるのはおそらくこれではないか」と言って、真ん中に「ニュートリノ」と書いたことがある。この研究は素粒子と宇宙という2つの世界をニュートリノで繋ぐことになった。
2.朝永振一郎先生
1948年、一高を卒業するときの校長は天野貞祐先生で、東大物理に行くならと、朝永先生への紹介状を書いて下さった。朝永先生は1965年(昭和40)にノーベル物理学賞を受賞された方だったが、私は当初、朝永先生がどんな偉い先生か知らなかった。紹介状を持って大久保の地下壕に、空襲を避けて先生一家が住んでおられた。浴衣姿で出ていらして「ここじゃ何だから研究室へ行きましょう」。
先生のいた東京文理科大学(当時)の研究室へ行ったら、配給のタバコの葉を鉛筆を使って紙に巻きながら話を聞いてくれた。私はいっぺんに先生が好きになってしまいました。
先生は仲人を引受けてくれましたが、そのときのスピーチは極めて簡単でした。
「今までの花婿には、私は物理を教えましたが、酒は教えませんでした。私の隣に座っている小柴君には酒は教えましたが、物理は教えませんでした」。それでおしまいだった。朝永先生とは酒はよくご一緒したが、物理の指導を受けたという記憶は確かにない。
小柴 昌俊 | |
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『小泉内閣メールマガジン』寄稿に際して 公表された肖像写真 | |
生誕 | 1926年9月19日 日本 愛知県豊橋市 |
死没 | 2020年11月12日(94歳) 日本 東京都 |
居住 | 日本 |
国籍 | 日本 |
研究分野 | 素粒子物理学 宇宙線物理学 天体物理学 |
出身校 | 東京大学 |
主な業績 | ニュートリノ天文学の開拓 超新星からのニュートリノの検出 |
主な受賞歴 | 仁科記念賞(1987年) 日本学士院賞(1989年) フンボルト賞(1997年) ウルフ賞物理学部門(2000年) ノーベル物理学賞(2002年) ベンジャミン・フランクリン・メダル(2003年) |
プロジェクト:人物伝 |
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小柴 昌俊(こしば まさとし、1926年〈大正15年〉9月19日 - 2020年〈令和2年〉11月12日)は、日本の物理学者、天文学者。
勲等は勲一等。正三位。学位はPh.D.(ロチェスター大学・1955年)、理学博士(東京大学・1967年)。東京大学特別栄誉教授・名誉教授、東海大学特別栄誉教授、杉並区立桃井第五小学校名誉校長、日本学術会議栄誉会員、日本学士院会員、文化功労者。 血液型はA型。
シカゴ大学研究員、東京大学原子核研究所助教授、東京大学理学部教授、東京大学高エネルギー物理学実験施設施設長、東海大学理学部教授、財団法人平成基礎科学財団理事長などを歴任した。