掲載時肩書 | 藤田観光社長 |
---|---|
掲載期間 | 1963/05/28〜1963/06/26 |
出身地 | 長野県上田 |
生年月日 | 1899/12/24 |
掲載回数 | 28 回 |
執筆時年齢 | 64 歳 |
最終学歴 | 京都大学 |
学歴その他 | 水戸高 |
入社 | 安田信託 |
配偶者 | 学生結婚 |
主な仕事 | 貸付課長、豊島園社長、日本曹達、ラサ工業、東洋拓殖、藤田興業(児島湾干拓)、国土総合開発、小涌園、椿山荘、東海汽船 |
恩師・恩人 | 戸沢・安田専務、、川上弘一(興銀)、結城豊太郎 |
人脈 | 江戸英雄、船橋聖一、中野友礼、森矗昶、野口遵、青木均一、小林一三、安西正夫、森暁、小磯国昭、五島慶太、大野伴睦、大川博 |
備考 | 代々僧籍、人物で融資、人脈多し |
1900年(明治33年)1月10日- 1978年(昭和53年)12月8日)は日本の実業家。安田信託時代には抵当流れだった豊島園の再建に辣腕を振るった。その後日本曹達を経て東亜鉱工(現:ラサ工業)から1944年に藤田財閥入り。財閥解体に伴う財産整理の一環で同和鉱業から藤田興業を分離し、更に藤田家の所有していた邸宅地の活用から観光事業に進出。箱根小涌園や大阪太閤園、東京椿山荘などの藤田観光グループを築き上げた。獅子文六の小説『箱根山」に登場する第3の男である「氏田観光」の北条一角のモデルとなったとされ、「財界のブルドーザー」との異名をとった。藤田観光初代社長。東海汽船社長や国土総合開発社長など歴任した。
1.飛び入りの弁論大会で優勝
「水戸の小川か、小川の水戸か」これは第1回の高等学校弁論大会に私が優勝したとき、朝日の茨城版に載った文句である。私は野球部のマネジャーの他に弁論部の委員もさせられていた。ある年(高校3年)の正月7日、私のところに校長から電話がかかってきた。「出場候補者が緊張と心配から神経衰弱になったから、お前が出ろ」というのである。私は飛び入りの形で、大会場である本郷の東大に乗り込んだ。
「いちばん素晴らしい人間というものは、父のような冷静さと母のような愛を持たねばならぬ。この二つが渾然として集まってできたものが完全な子供だと思う。・・・キリスト主義だけでも行かぬ、科学だけでもいかぬ、愛情だけでもダメだ。・・・この二つを持つ人間に私はなりたい」こんな趣旨の弁論を私はぶった。それが一等になったのである。朝日の茨城版では私の写真と記事を半ページをさいた。おかげで、またまたラブレターがうんとこさと舞い込んできた。
2.人を担保に異色の貸しっぷり
安田信託に入社して9年目の35歳のとき、私は本店の貸付係長から貸付課長になった。私の心を掴まえた人に昭和電工を創立した森矗昶(のぶてる)さんがいた。森さんは当時(1933)、資本金百万円の日本沃土(のちの昭和電工)の社長だったが、私は電気を材料にして化学工業の新しい世界をつくろうとする氏の識見と人物に惚れて一所懸命、金を貸したものだ。水豊ダムをつくって化学工業を興した野口遵(したがう)さん、電力をもとに苛性ソーダを興した中野友礼さん、この二人と違い技術屋にあらずして、人間の味で化学工業を興した森さん・・この3人は金はなく、電力から新しいものをつくりだそうとしている。
しかし銀行筋では「おいそれ」と金を貸すはずがない。私は上司が危険な貸し付けだと反対するのに、「森という人は世論の要求に向かってモノをつくっている。しかも私心がないから必ず成功する。森という人物が担保だ」と反論して通した。
3.外国旅行の餞別
日華事変の雲ゆきが怪しくなった昭和12年(1937)7月15日、私は米国に向けて出発した。この日の見送り人は記録的な人数であった。取引先はもちろん何百の見送りの中には芸者衆も混じっていたが、彼女たちは潮水で訪問着が濡れるのも意とせず、勇敢にも観音崎までランチを仕立てて見送ってくれた。その中に男性一人、私の親父がとりこになっているのには苦笑した。
船内に運び込まれた植木鉢40幾つ、4升樽の酒40本、それに餞別が5万円(1万2千ドル強)ほどになった。私は銀行の取引先の盆、暮れの届けものは一切ことわっていたが、今度ばかりは「俺のようなぶざまな人間が米国に行くのだから、帰ってこられるかどうかわからない」とこの多額の餞別を遠慮なく頂戴した。安田信託の方からは旅費として1万5千円(4千ドル弱)を貰ったのだから、私の懐は極めて裕福であった。
小川栄一(おがわ えいいち)