掲載時肩書 | 日本学士院会員 |
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掲載期間 | 2008/12/01〜2008/12/31 |
出身地 | 京都府 |
生年月日 | 1928/11/30 |
掲載回数 | 30 回 |
執筆時年齢 | 80 歳 |
最終学歴 | 東京大学 |
学歴その他 | 東京高校 |
入社 | 母校助手 |
配偶者 | 友人妹 |
主な仕事 | ハーバード大留学、教授、所得倍増賛、八幡・富士合併反対、円切上、反マル経、反「前川リポート」 |
恩師・恩人 | 木村健康教授(仲人)、都留重人 |
人脈 | 篠原三代平、館龍一郎、隅谷三喜男、宇沢弘文、弟子(白川方明、須田美矢子、岩田規久男、山本幸一)、浜田宏一(同期)、吉野俊彦論敵 |
備考 | ゼミ生500人、5原則(車免許、早婚、日経新聞、英会話、テニス) |
1928年(昭和3年)11月30日 – )は京都生まれ。経済学者。東京大学名誉教授・青山学院大学名誉教授。国際経済学、日本経済、中国経済の3つの分野での実証的な研究を行った業績で知られる。また、多くの日本の経済論争に中心人物としてかかわっている。1964年から1965年にかけてスタンフォード大学客員教授を務めたあと、1969年から東京大学経済学部教授に就任し、1989年の60歳定年まで務めた。その間、多くの学者や官僚、政治家をゼミから輩出している。また、経済学部長および総長特別補佐を歴任した。
1.私の理論と主張
1960年代初めには、日本経済の先行きに慎重論が多かったなか、高度経済成長は可能だと論じた。八幡製鉄と富士製鉄の合併では、現職の大臣や官僚が合併賛成の旗を振るのに憤慨し反発した。71年のニクソンショックの直前には、当時1ドル=360円の固定相堅持の大勢に反し円切り上げを主張した。
80年代後半から日米貿易摩擦が強まる局面で、米国が日本に求めた内需拡大論は筋違いであると批判した。日銀の金融政策については、60年ごろから、資金割り当てによる金融調節はさっさとやめて市場メカニズムに委ねるべきだと論陣を張った。
かかわった論争で、私は最初はたいてい少数派だった。しかし学問は通説や常識を覆すのに価値がある。本来、新しい学説・理論は少数派だ。
2.ハーバード大学で学んだこと
1956年6月に奨学金をもらい、ハーバード大学とマサチューセッツ工科大学(MIT)の客員研究員になった。滞在3年目にはアメリカ経済のモデルを作って、火力発電の技術進歩について研究した。実証研究を学んだ。米国留学の第一の成果だ。第二の成果は、身近な経済問題を経済学の理論に基づいて考える大切さを学んだことだ。米国の大学では昼食の際に学者同士が日々の経済問題を語り合うし、セミナーでも時事問題を経済学ではどう考えるかが話題になる。私にもこうした学問のスタイルが自然と身についた。
三番目は、論文の書き方だ。外国人の書いたものを適当にまとめたものは、学術論文とはいえない。どこまでが賛成でどこでは反対なのかをハッキリさせ、自分の独創性を示し、明確な「結論」を述べなければ研究論文とはいえない。いい加減な纏めは剽窃(ひょうせつ)として非難されかねない。日本の文科系ではいまだにこの点の理解が不十分だ。四番目は、民主主義・自由主義の基本にかかわるが、師弟も学業が終われば人格は対等ということだ。医師と患者、先輩と後輩も対等だ。アメリカでは師が弟子を非難し、弟子が師を批判するのは当たり前。お互いに遠慮なく議論して相互理解に達する。この精神が学問に大切だ。
3.「財政の仕組み」実情を学ぶ
1978年から2年間、経済学部長を務めた。ここで予算要求を通じて生きた「財政の仕組み」を学んだ。私は「教授・助教授・助手一人ずつ」という講座をいくつかまとめて「大講座」とし、助教授と助手を減らして教授を増やすことを考えた。まず文部省からの出向である東大の経理部長に話に行くと「他大学の前例を調べてください」と言う。北大と一橋大の例を聞き、前例案を作り直すと、次は「文部省の大学課に行ってください」という。文部省の古参課長補佐に2回ほど説明して、次に大学課長、審議官、局長に会う。そのうち、「東大の経済学部なら大蔵省の知り合いにお会いになってもやむをえません」という。この段階で初めて大蔵省主計局の文部担当主査に会いに行く。頭越しだと文部省の機嫌を損ねる。うまくいきそうになると東大の経理部長が「自民党の文教部会で誰か知っていませんか」と訊く。私は三木武夫さんを通じての旧知の方にお願いに行った。これらを私は「お宮参り」と称していた。そして年末の大蔵省原案に入ったとき、お願いした全ての人にお礼に行く。誰もが「努力したかいがありました」「自分が面倒を見てやった」という顔をしている。私は市場での取引による資源配分と財政による資金配分、資源配分とは全然違うことを身をもって知った。
氏は10月31日93歳で亡くなった。この「私の履歴書」に登場は2008年12月で80歳のときでした。私(吉田)はノーベル経済学賞候補になった宇沢弘文氏(2002年3月74歳で登場)の方が日本では著名だと思っていたが、今朝の日経新聞に奥村茂三郎氏(国際報道センター長兼Nikkei Asia編集長)は、小宮氏の功績と宇沢氏の好敵手ぶりを比較して次のように書いていた。素晴らしいので紹介する。
経済学者の小宮隆太郎氏は「通念の破壊者」と呼ばれ、その異名を好んだ。「近代経済学」を率い、戦後日本の経済学界の多数派だったマルクス経済学を論破した。学者としての最盛期から時を経ても、名伯楽としての功績は輝きを失っていない。志半ばで退いた白川方明日銀前総裁、リフレ派を代表する岩田規久男前副総裁、次期総裁候補に名前が上がる中曽宏前副総裁には共通点がある。3人とも小宮氏の教え子で、白川氏と中曽氏は東大経済学部のゼミ生、岩田氏は大学院の学生として指導した。日本商工会議所の三村明夫前会頭も小宮ゼミの出身。いずれも経済学の理論を駆使する論客たちだ。旧大蔵省(現財務省)にも小宮ゼミから榊原英資元財務官らを輩出。東大法学部生らの学生団体「法律相談所」出身者と並ぶ二大勢力を築いた。
「小宮ゼミ五原則」なるものがある。(1)運転免許を取る(2)早く結婚する(3)日経新聞を読む(4)英会話ができる(5)テニスをする――ことを学生に促した。通底するのは米国が最も輝いていた1956~59年の留学経験だ。「アメリカン・ライフ」という岩波新書を著し、80歳で自ら運転して東北を訪れた。「自動車の社会的費用」に警鐘を鳴らした同世代の経済学者、故宇沢弘文氏と好対照をなし、ゼミ生同士もライバル関係にあった。中曽氏とともに次期総裁に擬される雨宮正佳日銀副総裁は宇沢ゼミの出身だ。小宮氏は「天下の秀才を教育すること」を君子の三つの楽しみの一つとした孟子の言葉もよく引用した。徹底的に議論する小宮ゼミの伝統は、OB同士が主導する今日の金融政策論争にも脈打っている。
奥村茂三郎氏の追悼文では、「小宮ゼミ五原則」の紹介と弟子の人物一覧が出てくる。いやぁー、凄いものですね。ここまでお二人を熟知していないと書けない文章だとつくづく思いました。2022/11/13
日本学士院より公開された肖像写真 | |
生誕 | 1928年11月30日 京都府京都市 |
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死没 | 2022年10月31日(93歳没) 東京都練馬区 |
国籍 | 日本 |
研究機関 | (機関)スタンフォード大学 東京大学 通商産業研究所 青山学院大学 |
研究分野 | 国際経済学、日本経済研究、現代中国経済研究[1] |
母校 | 東京大学経済学部 |
影響を 受けた人物 | 木村健康、ワシリー・レオンチェフ |
影響を 与えた人物 | 中馬弘毅 · 三村明夫 · 斎藤精一郎 · 榊原英資 · 薄井信明 · 竹島一彦 · 岩田規久男 · 八代尚宏 · 岩井克人 · 石川経夫 · 三輪芳朗 · 山本幸三 · 須田美矢子 · 白川方明 · 太田房江 · 中曽宏 · 小田原潔ほか多数 |
実績 | 戦後日本における経済学の発展に多大な貢献 |
受賞 | 文化功労者(1996年) 文化勲章(2002年) |
小宮 隆太郎(こみや りゅうたろう、旧字体:小宮 隆太郞、1928年(昭和3年)11月30日 - 2022年(令和4年)10月31日)は、日本の経済学者。位階は従三位。東京大学名誉教授・青山学院大学名誉教授。国際経済学、日本経済、中国経済の3つの分野での実証的な研究を行った業績で知られる[1]。また、多くの日本の経済論争に中心人物としてかかわっている。2002年、文化勲章受章。