小倉昌男 おぐら まさお

交通(陸海・海運)

掲載時肩書ヤマト福祉財団理事長
掲載期間2002/01/01〜2002/01/31
出身地東京都
生年月日1924/12/13
掲載回数30 回
執筆時年齢78 歳
最終学歴
東京大学
学歴その他東京高
入社父:大和運輸創業
配偶者旧家の娘(聖心女子)
主な仕事小口(宅配便)「安全第一」、三越取引解除、ヤマト運輸、行政訴訟、ゴルフ・スキー、クール便、ヤマト福祉財団、ベーカリー
恩師・恩人父は反面教師
人脈藤岡真佐夫、岡田茂(三越)、小渕恵三(父:運送業)、都築幹彦、宮内宏二、高木誠一、杉浦銀治、曾野綾子
備考クリスチャン、官僚と闘う男
論評

1924年12月13日 – 2005年6月30日)は東京生まれ。実業家、ヤマト福祉財団理事長。ヤマト運輸の『クロネコヤマトの宅急便』の生みの親である。『宅急便』の名称で民間初の個人向け小口貨物配送サービスを始めた。サービス開始当時は関東地方のみだったが、その後、配送網を全国に拡大し、ヤマト運輸(1982年に商号変更)が中小の会社から売上高一兆円の大手運輸会社に発展する基礎を築く。1995年に退任した後は、ヤマト福祉財団理事長として障害者が自立して働く場所作りに取り組んだ。

1.仕事の優先順位明示が重要
1954年(昭和29)7月、静岡運輸への出向を命じられた。同社は経営が破綻したため、銀行の依頼で大和運輸が子会社化していた。静岡市に下宿し、29歳の若さで総務部長になる。総務部長としては、安全対策も重要な任務だった。とにかく交通事故が多かったからである。労働基準監督署から不良事業所として睨まれ、度々呼び出された。出向くと、木工業の優良事業所があるから勉強に行って来い、と言われた。
 その会社を訪問すると、作業所に「安全第一、能率第二」という貼紙がある。なるほど、と感心した。どこの会社でも安全第一とは書いてあるが、能率第二とは書いていない。第二を示すことで、本当に安全が第一であることが分かる。静岡運輸では、東京行きのトラックは3日目の朝に帰ってくる。3日目は休みだが、仕事が忙しいと非番返上で運転させていた。それを禁止するために、「安全第一、営業第二」と書いたポスターを作った。その結果、事故は減り、しかも営業成績は落ちなかったのである。何が第一なのか、はっきりと優先順位を示す経営者にならなければダメだと痛感した。後に「サービスが先、利益は後」に繋がった。
 事故処理も大事な仕事だった。着任して間もない頃、藤枝で死亡事故が起きた。相手の運転手が即死したのである。すぐさま事故現場に飛んだ。現場検証が終わり、遺体を近所の空き家に運び、遺族が来るまで一人で番をした。初めて死体を抱く経験をしたのだが、これも運送業者の仕事だと自分に言い聞かせると度胸が付いた。ただ、時間が経つと目の前の死体がコトンと動く。きっと死後硬直だったと思うが怖かった。

2.トレーラーシステムの導入で運送を効率化
同業他社に比べ、なぜ利益率が低いのか。悔しくて必死に原因を考え、生産性の向上対策を打ち出した。トレーラーシステムの導入である。普通のトラックの最大積載量は10トンだが、トレーラーを使えば最大15トンまで積める。さらに良いところは、けん引するトラクターと、貨物を積むトレーラーを切り離せることだ。運行中でも、起点と終点では別のトレーラーで荷物の積み下ろし作業ができるため、輸送効率が飛躍的に上がる。1965年(昭和40)に導入し、75年にはトラクターとトレーラーの合計台数を206台まで増やした。
 67年からは乗り継ぎ制を積極的に採用した。それまで東京と大阪を往復する場合、運転手は午後に出勤して荷を積み、夜9時ごろ東京を出発していた。翌朝7時ごろ大阪に着き、仮眠してから夜に大阪を出発、3日目に東京へ戻ってくる。だが、同じ運転手が東海道を往復する必要があるのだろうか。
 思案の末、中間の浜松で上り下りの運転手がトレーラーを交換し、折り返すようにした。東京を出た運転手は、従来なら大阪に着く時間に東京に戻れるわけだ。大阪で仮眠する代わりに自宅で過ごせるので、労働時間の短縮につながった。

3.宅急便のメリット
宅配便のサービスを充実させるには、営業所や社員を増やす必要があり、当然コストがかかる。出だしは苦戦した宅急便だが、徐々に消費者に認知されるようになった。電話一本で一個でも家庭まで取りに行くサービスや、翌日配達というスピードが口コミで広がっていったのである。
 運転手の間では当初、集金や伝票処理などドライバーの仕事ではない、といった不満が多かった。しかし家庭まで荷物を届けると、「ありがとう」「ご苦労様」と声を掛けられる。企業の大口荷主相手では怒られることの多かっただけに、大いに士気が上がった。最初の約2か月の取扱個数は3万個強だったが、実質的な初年度である1976年(昭和51)度には170万個強に達した。うれしかった。
 デメリットだらけと言われた宅急便だが、意外にメリットが多いことも分かってきた。主婦は大口荷主と違って運賃を値切ったりしない。荷物が軽いので女性ドライバーを活用できる。それに、始めてから気づいたのだが、日銭が入ってくる。企業相手では手形が多かったから、財務内容の改善に役立った。

小倉 昌男(おぐら まさお、1924年12月13日 - 2005年6月30日[1])は、日本実業家ヤマト福祉財団理事長ヤマト運輸の『クロネコヤマトの宅急便』の生みの親である。東京都出身。

  1. ^ ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説”. コトバンク. 2018年1月28日閲覧。
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