富本憲吉 とみもと けんきち

芸術

掲載時肩書陶芸家
掲載期間1962/02/01〜1962/02/20
出身地奈良県
生年月日1886/06/05
掲載回数20 回
執筆時年齢76 歳
最終学歴
東京藝術大学
学歴その他
入社清水組
配偶者記載なし
主な仕事建築家、米、英留学、(楽焼、白磁、染付、上絵)、東京芸大教授、京都美大教授、民芸
恩師・恩人岡田信一郎、石野龍山
人脈川端玉章教授、梅原龍三郎(左きき)、山田耕作、バーナードリーチ(師・尾形乾山)、高村光太郎
備考左きき、法隆寺に奉仕
論評

1886年(明治19年)6月5日 – 1963年(昭和38年)6月8日)は奈良生まれ。日本の陶芸家。映画監督・テレビ演出者の富本壮吉は長男にあたる。幼少より絵を学ぶ。東京美術学校に入学して建築、室内装飾を専攻。卒業前にロンドンへ私費留学(留学中に卒業)。その後来日していたバーナード・リーチと出会い、交友を深めてゆく。リーチは陶芸に熱中しており、陶芸家の六代目尾形乾山に学んでいた。富本も影響を受けて興味を持つようになり、1913年(大正2年)に故郷の裏庭に簡単な窯を作り楽焼作りを始める。主に白磁、染付の作品を制作。この時点ではまだ世に知られる存在ではなかったが、1927年(昭和2年)の特別展で評判を得た。昭和10年代は本格的に色絵磁器の制作に励んでいる。このころは柳宗悦の民芸運動にも共感を寄せていた。

1.左利きの効用
幼児を振り返って、面白いと思うことの一つは、私が生来、左利きだったことである。父親から強制的に右手使いを指導されたが、生来の左利きを捻じ曲げるようにして右に直したのが、私の心理に大きな影響を与えた。私のものの考え方に飛躍する癖があるのは、どうも左利きの矯正が影響していると思われる。
 幸いなのは、陶芸のロクロを引くとき、陶土を延ばすのに左手を使用するが、これはその方が都合が良いので、むしろ右利きの人に同情するのである。友人の梅原龍三郎君なんか左手で画筆を握っている。これは絵を見るとすぐわかる。

2.川端玉章教授の教え
図案科で日本画家の川端教授に教えていただいた。先生の最後の授業で1枚の水墨画を描いてくれた。
「ここに君の描いた絵と、僕の描いたものと二つある。この二つはどちらも、いま描いたばかりだが、僕のは墨が乾いても、いまの濡れたのと同じ効果を持つ。君のは乾くとかさかさになり、焼いたするめのようになってしまう。君と僕の絵の違いはそれだけだ」と先生に言われた。その時は、別段気に留めなかったが、先生は、「君は将来、必ず絵をやるようになるよ。他の職業に就いたとしても、絵から一生抜け出せないだろう。見ていたまえ。やがて君が描く絵も、乾いてなお描いた時と同じ効果が出るようになるから」と追加された。
 もちろん、これらのことはすっかり忘れていたが、戦前よく信州の野尻湖の別荘に秋の紅葉を描きに行ったものだが、あるとき、人々が東京に引き揚げた後の静かな境地で写生をしていた。ところが今までと全然異なった墨色が出た。「オヤッ」と思って乾くのを待ってみたが墨色が変わらぬ。忽然として前述の先生の言葉を思い出し、「口ではいえぬ、自分で悟れ」といわれたことを、初めてわかったような気がした。

3.生涯の友・バーナード・リーチ
美校を3月に卒業する前年・明治41年(1908)10月、23歳で欧州に自費留学のため出発した。そしてロンドンの美術学校のステンドグラス科に入学した。美校にいた時からリーチの名前は知っていたが、帰国後の大正6年(1917)の夏か秋に、東京下谷桜木町のリーチの家で会った。リーチはロンドンの同じ学校の出身なので私たちは、初めて会ったという気がせず、百年の知己を得たように、お互いに英国の話や、工芸、図案にことなどを話し合った。その頃のリーチはエッチングをやっており、私はこれといってまだ方針も定まっていなかったので、やがて、ふたりが手を携えて陶芸の道に進もうなどとは、このときは夢にも考えなかったのである。
 あるとき拓殖博覧会に楽焼の席焼を出店している知人がいた。私とリーチの二人で行って、いくつもの絵や模様を描いて焼いてもらった。この私たちの描いた楽焼きを、ある美術雑誌主催の小品展覧会で即売したところがリーチのも、私のも飛ぶように売れた。全部で百点近くもあったろうか。このように評判を呼んだのは、私たちの描くものに従来と違った斬新な魅力があったのだろう。

富本憲吉

富本 憲吉(とみもと けんきち、1886年明治19年)6月5日 - 1963年昭和38年)6月8日)は、日本の陶芸家人間国宝文化勲章受章者。尾竹紅吉は妻。映画監督・テレビ演出者の富本壮吉は長男。

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