掲載時肩書 | 神戸市長 |
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掲載期間 | 1985/03/01〜1985/03/31 |
出身地 | 京都府 |
生年月日 | 1911/09/03 |
掲載回数 | 31 回 |
執筆時年齢 | 74 歳 |
最終学歴 | 立命館大学 |
学歴その他 | 姫路高 退学処分 |
入社 | 日本マッチ 共販 |
配偶者 | 見合い |
主な仕事 | 河本事件、神戸市役所、受験私塾、 復興(道路、交通体系)、六甲山開発、ポートピア、デベロッパー、 |
恩師・恩人 | 原口忠次郎、小林一三 |
人脈 | 淀川長治、石野信一、花森安治、中内功(中学)、松尾泰一郎(高)、阪本勝、砂野仁、松下幸之助、関本忠弘、陳舜臣 |
備考 | 商売上手の市長、父:弁護士 |
1911年9月3日 – 2000年2月22日)は京都生まれ。政治家。第13代神戸市長。元神戸市山岳連盟会長。「最小の経費で最大の市民福祉」を基本理念に、原口忠次郎前市長時代にスタートした「山、海へ行く」のスローガンで六甲山を大胆に削り取りその土砂を利用したポートアイランドや六甲アイランドなど巨大な人工島を神戸港に造成する事業を継続し(六甲アイランドについては宮崎時代に事業開始)、大きく街の様相を変化させる。1981年(昭和56年)には神戸ポートアイランド博覧会協会会長として「ポートピア’81」の開催を成功させた。また、埋め立て地の売却益や、外国金融機関からの起債を中心に、国からの補助金に頼ることなく自力で神戸市を大きくする行政手法を展開。一連の宮崎行政は「株式会社神戸市」と呼ばれ、国内外から大きな注目を浴びた。
1.都市経営の考え
市長就任を機に、私は自治体独り立ちの方途を求めていった。非能率なお役所仕事を排し、経営センスを生かした自治体の企業化を進めたのである。自治体の守備範囲は広い。戸籍、教育があれば水道、交通事業もある。宅地造成や海の埋め立てもある。自治体は「公共サービスを売る会社」であり、大都市は「パブリック・コングロマリット(公的複合企業)」だ。市長は政治家としてより、経営者としての手腕を求められているのである。
多くの事業を手掛けた中で、公共デベロッパーとして外債発行、六甲山を削った土で海上都市ポートアイランドを建設した。私は行政も勝負だと思う。山を海へ動かす大プロジェクトは言うまでもなく、下水道を敷設するのも、条例を改定するのも、言ってみれば皆、勝負だ。勝負には勝機がある。企業経営が勝機を逃がしたら失格だ。国の補助に頼って30年かかる事業を、起債で10年に完成させることは可能である。事なかれ主義の首長にはこの決断はできない。「最小のコストで最大の利潤」が企業経営とすれば、都市経営の目標はあくまで「最小の市民負担で最大の市民福祉」にある。公共デベロッパーや外郭団体の活用、起債主義など、いずれも「最小の経費で最大の効果」を上げるための方策である。
2.六甲山開発
昭和27年(1952)ごろは全国的に国立公園の指定に向けて各観光地が指名争いの真っ最中。神戸でも有馬温泉の旅館業者が中心となって、すでに指定が決まっていた瀬戸内海国立公園への、六甲山と有馬の編入を目指して一大キャンペーンが繰り広げられていた。その甲斐があって指定が確実となった。
しかし昭和13年(1938)の阪神大水害で六甲ドライブウェーやロープウェーも寸断され、大きな被害を受けていた。この大水害の復旧費とか、砂防えん堤の補償公費をねん出するため、有料道路の採用で金策をつけることにした。国は資金不足で、借金は認めるが金策は自分で探して来いという。そこで六甲山の開発では阪神が先行しており、巻き返しを図っている阪急なら対抗上、この話に乗ってくるのではと踏んで、阪急を選んだ。阪急なら実力者の小林一三会長(当時)に直接頼んだ方が良いと思い、29年8月、六甲山ホテルで静養中のところを説明にうかがった。小林さんは「社内ではロープウェーの再建の計画があり、神戸市への融資の是非が検討された」としたうえで、「私は、これからは自動車の時代が来るに決まっている。近頃の三等重役どもは先も読めないのかと叱りつけてやったよ」と快く引き受けてくれた。
やれやれとほっとしたら、「それにしても神戸市の道路計画はお粗末すぎる。狭いし、急カーブばかりだ」とこちらも叱られてしまった。
3.河本敏夫事件関与で退学
この事件が発生したのは昭和4年(1929) 10月1日のことだ。この日、姫路市郊外の高岡射撃場で姫路歩兵39連隊と、教練に来ていた姫路高校文科用類の学生が実弾の射撃演習を行っていた。昼休み、あちこちで兵士と学生が雑談の折、クラス総代でもあった河本敏夫君(現国務相)が、兵士たちに「満州(中国東北部)を侵略すべきではない。君たちはどう考えているか。どんな気持ちで弾を撃っているのか」とぶったのが発端。その年、世界大恐慌が始まり、二年後には満州事変が勃発する騒然たる時世が背景にある。河本君にしてみれば、日ごろの思いのたけを話しただけだという。だが、連隊側は学生が戦争反対の思想を吹き込みに来たと受け取った。
連隊の抗議に学校も放っておけず、校長と学生主事が本人を呼び出して事情を聴収した。河本君は臆するどころか「当然のことを話しただけで、反省する必要はない」と突っぱね、結局、諭旨退学となった。彼の秀才ぶりは学内でも知られており、勉強家、努力家で信義に厚いからみんなに尊敬されていた。軍部の圧力に押し切られた学校当局への不満が渦巻いた。誰いうともなく「河本君を救え」と抗議の運動が沸き起こり、私も学生大会開催に奔走した。そして「一週間の全学ストライキへと突入」となった。ここに至って事態を見守っていた先輩たちが仲介に乗り出した。学校側は「スト学生を処分しない、その代わり学生はストを中止する」というもので、この斡旋案を否応なしにのまされた。ついに河本処分の撤回はかなわないままに、姫高を揺るがした「河本事件」は終息するのである。
釈然としない私は怒りが収まらず、もはや勉強は手につかない。思案の末、翌年2月、河本君の出身校の立野中学で「諸君の先輩を見殺しにするな」と題したビラをまいた。私が原稿を書いてガリ版を切り、同じクラスの八島一夫君(後に弁護士)が撒いた。筆跡から私の名前が浮かび、たちまち治安警察法違反で立野署に放り込まれた。15日ほど留置され、仲間は誰だと責め立てられたが、八島君のことはしゃべらなかった。出てくると学校に籍はなかった。即刻退学だ。覚悟の上とはいえ、いいようのない挫折感に囚われ、二月の寒風に追われるように校門を後にした。