掲載時肩書 | 前参議院議長 |
---|---|
掲載期間 | 1981/12/05〜1981/12/31 |
出身地 | 岡山県 |
生年月日 | 1911/03/22 |
掲載回数 | 27 回 |
執筆時年齢 | 70 歳 |
最終学歴 | 京都大学 |
学歴その他 | 六高 |
入社 | 満鉄 |
配偶者 | 医学教授娘 |
主な仕事 | 大連・経理部、兄都知事秘書、参議員、自治大臣・国家公安長、参院議長、大平首相殉職 |
恩師・恩人 | 石原周夫、保利茂 |
人脈 | 法眼晋作、六高柔道(桜田武、永野重雄、大田薫)、榊原仟、蜷川虎三、大屋晋三、石井光次郎、河野謙三、山田光成 |
備考 | 代々庄屋、兄:誠一郎(東京都知事) |
1911年3月22日 – 1986年3月10日)は岡山生まれ。政治家。第5次吉田内閣で労働政務次官を務め、第2次池田内閣で自治大臣兼国家公安委員会委員長に任命され、初入閣を果たした。第1次佐藤第1次改造内閣で総理府総務長官に任命され、2度目の入閣を果たす。総理府総務長官在任中は建国記念の日導入に携わった。1968年、重宗雄三参議院議長の下で参議院副議長に就任する。1971年まで3年間副議長を務め、1977年には参議院議長に就任した。兄は初代東京都知事を務めた安井誠一郎。
1.満鉄に入社
私は昭和10年(1935)4月に満鉄に入社した。満鉄が国策会社としてスタートしたのが明治39年(1906)。私らが入社したころは満州の全鉄道は事実上、満鉄の責任で運営され、社員は日本人10万人、現地人20万人規模に膨れ上がっていた。株式会社形式をとり、配当はしていたものの、独占企業で他とのせち辛い競争もないので、上から下まで伸び伸びした空気が満ち満ちていた。
スポーツでは満鉄と大連実業団の対抗野球試合が大きな呼び物だった。大連実業団は三井、三菱などの各企業の混成チームで、年1回対抗試合を行った。私もよく応援に行った。満鉄や満州の実業団には東京六大学野球で鳴らした選手も入ってきており、その中には後のプロ野球の監督にもなった慶大出身の浜崎真二さんという「小さな大投手」もいた。
2.「大学法案」を強行採決(議長判断で)
昭和43年(1968)8月に重宗雄三氏が参院議長に三選され、私は副議長に選出された。副議長在任中の大仕事は大学運営臨時措置法案の取り扱いだった。同法案は野党の抵抗が強く、やっとのことで衆院を通過したものの、参院では委員会審議にも入れなかった。そのうち会期末が迫り、佐藤総理や田中角栄幹事長から強行採決の要請が届く。しかし重宗さんは一向に腰を上げようとしない。私も心配になり、夜遅く重宗さんのお宅に伺い、「どうしますか?」と訊ねたが、重宗さんは返事をしない。そのうち「チョッと奥の部屋に来い」という。行ってみると仏壇がある。怪訝な顔の私に「仏様でも拝んで心を鎮めて帰れ」と言われた。これで私は「ははぁ、なるほど」と大方の察しがついた(伝家の宝刀をぬくつもりだな)。
重宗さんは本会議を開会したが、議場が混乱し、いったん休憩した。そして再開すると同時に「先ほどの混乱の状態では質疑討論ができないと認めます。休憩前の議事はすべて中止し、日程第七(大学法案)を議題とすることに賛成の諸君の起立を求めます」とやった。議場がワァワァ言っているうちに「起立多数、日程七を議題とします。委員長の報告を省略し直ちに本案の採決を行うことに賛成の諸君の起立を求めます」と続けた。騒然となる中で、結局、自民党の賛成多数で可決、成立した。わずか2分、異例中の異例の採決だった。
3.参議院議長の思い出
衆議院議長の保利茂さんとは図らずも昭和52年(1977)7月から54年2月まで衆参の議長コンビを組んだ。衆参の議長公邸は、表玄関は別々になっているものの、裏庭伝いに行き来できるようになっている。私も保利さんも碁が好きなものだから、お互いちょくちょく足を運んで楽しんだ。
議長は国内においては公式行事への出席にかなりの時間を割かれる。祝辞を読んだり、挨拶したりするのは良いとしても、議長は国賓の来日時に宮中や総理官邸で開かれる招宴にも出席しなければならない。晩餐会の場合は大体7時過ぎから10時過ぎまで続く。私なんか言葉が不自由なものだから正直言ってしんどかった。ただ、東京サミットの際に催された宮中晩さん会は圧巻だった。陛下を囲んで各国の首脳がズラリと顔を並べた様を見て、「日本も”世界の日本“になったんだなぁ」とつくづく感じた。
宮中で行われた浩宮徳仁親王の成人式も忘れられない。浩宮様が近代青年らしいさわやかさで、快活に陛下に言上されていたシーンを思い出す。
安井 謙 やすい けん | |
---|---|
| |
生年月日 | 1911年3月22日 |
出生地 | 日本 岡山県岡山市 |
没年月日 | 1986年3月10日(74歳没) |
死没地 | 東京都板橋区 日本大学医学部附属板橋病院 |
出身校 | 京都帝国大学経済学部 |
前職 | 安井誠一郎東京都知事秘書 |
所属政党 | (自由党→) 自由民主党 |
称号 | 従二位 勲一等旭日桐花大綬章 参議院永年在職議員 |
親族 | 兄・安井誠一郎(東京都知事) |
第13代 参議院議長 | |
在任期間 | 1977年7月28日 - 1980年7月7日 |
天皇 | 昭和天皇 |
第11代 参議院副議長 | |
在任期間 | 1968年8月3日 - 1971年7月17日 |
第12代 総理府総務長官 | |
内閣 | 第1次佐藤第1次改造内閣 |
在任期間 | 1965年6月3日 - 1966年8月1日 |
内閣 | 第2次池田内閣 |
在任期間 | 1960年12月8日 - 1962年7月18日 |
当選回数 | 6回 |
在任期間 | 1950年6月4日 - 1986年3月10日 |
その他の職歴 | |
第9代 自由民主党参議院議員会長 (総裁:田中角栄、三木武夫、福田赳夫) (1973年 - 1977年) |
安井 謙(やすい けん、1911年3月22日 - 1986年3月10日)は、日本の政治家。参議院議長(第13代)、参議院副議長(第11代)、自治大臣(第4代)、国家公安委員会委員長(第13代)、総理府総務長官(第14代)、参議院議院運営委員長(第16代)、自由民主党参院議員会長(第9代)同参議院幹事長、参議院議員(6期)。