掲載時肩書 | 東洋紡相談役 |
---|---|
掲載期間 | 1994/12/01〜1994/12/31 |
出身地 | 京都府 |
生年月日 | 1917/05/29 |
掲載回数 | 30 回 |
執筆時年齢 | 77 歳 |
最終学歴 | 東京大学 |
学歴その他 | 三高 神戸大学 |
入社 | 三菱化学 三菱商事 |
配偶者 | 野村 >宇野(日紡重役娘) |
主な仕事 | 海軍・短現、大建産業(伊藤忠)、呉羽紡(東洋紡と合併)、リストラ、バイオ財団、学研都市、道州制提言 |
恩師・恩人 | 伊藤忠兵衛、高岡定吉(呉羽)、大谷一二 |
人脈 | 野村与曾市(叔父、電気化学社長)、 永末英一、井上富三、橋本龍太郎、流政之、早石修、茶谷周次郎、 |
備考 | 「青春」ウルマン信奉 |
1917年5月29日 – 2000年11月12日)は京都府生まれ。実業家。東洋紡績社長や関経連会長を務めた。呉羽紡の織物部長となっていた1966年に会社が東洋紡績と合併し、加工品輸出部副部長となった。さらに半年後に商品開発部長を経て、1968年に新設の化成品事業部長となった。同事業部では社内初となる本格的な非繊維事業を手がけ、ポリプロピレンフィルムなどを事業化した。成熟産業となった繊維部門が低迷する一方でフィルム事業は急激に成長し、1972年に取締役に就任。常務、専務、副社長を経て1978年には社長に昇格するという急速な出世をしたが、役員時代にはオイルショックがあり、対策として事業の多角化を検討したものの具体化に至らなかった。
1.二代目伊藤忠兵衛さん
この伊藤忠兵衛さんを、呉羽紡績の社員みんなが親しみを込めて「忠兵衛さん」と呼んでいた。昭和4年(1929)設立の呉羽紡は忠兵衛さんが自ら興した。当時、東洋紡、鐘紡、第日本紡(現ユニチカ)が三大紡と言われ、強い地位を築いていた。忠兵衛さんは糸を高速で紡ぐ「スーパーハイドラフト式」という革新紡機を全面採用した新鋭工場で対抗した。革新織機も大量に導入した。創業の苦労も大きかっただけに繊維産業への思い入れも深かった。
GHQの公職追放により昭和20年〈1945〉12月24日、大建産業の臨時株主総会で忠兵衛さんは社長を辞任した。しかし、大建産業が呉羽紡、伊藤忠商事、丸紅などに分割されたあとも、呉羽紡には顧問の立場でよく顔を出し、「きょうの綿糸相場はどうや」と聞いて回っていた。私がニューヨーク駐在の時、忠兵衛さんが来られ、ボストンを訪問されるのにお供した。陽気で前向き、開放的な性格で、若い我々にも気さくに話しかけて、年齢差を感じさせない。人の気持ちを掴む天性の魅力がある人だった。
2.東洋紡との合併半年で辞意
昭和40年(1965)11月15日、東洋紡と呉羽紡績は合併したが、それを知ったのは当日だった。合併後、私は加工品輸出部副部長兼第5課長になった。呉羽紡時代の織物部長からみれば“降格”になるが、もともと呉羽の方が東洋紡より昇進スピードが速かったので、当然の措置と受け止めた。半年後に商品開発部長心得になれと命じられた。部長は不在で、肩書だけを見れば昇進だ。しかし、名前は立派だがあちこちの営業部門、デザイン部門からあぶれた人を集めた「寄せ集め部隊」と社内で見られていた。
「面白くない。オレは辞めるで」と、呉羽紡時代からの部下に告げた。ところが羽田董君(新興産業会長)に「合併発表の日に、あんたが自信をもってやれというので東洋紡にきた。あんたが真っ先に辞めたら、我々はどうなる」と引き留められた。翌日、辞意は撤回した。
商品開発部の空気は沈滞していた。「この部門の存在価値を認めてもらえるように頑張ろう」と、みんなに元気を出すように言った。意思疎通を図るために毎月曜日に1時間早く出社して、自由に発言もらうようにした。これが成功してこの月曜早朝会議はその後、化成品事業部、非繊維事業部、化合繊事業本部でも続け、社長就任後は「経営懇談会」として引き継がれた。今でも月曜の午前8時から10時前後まで、常務以上の役員が出席して会議が開かれている。
3.多角化の成功と失敗
昭和53年(1978)7月、大谷一二社長からバトンを引き継いだ。社長在任中に従業員数は16,800人から約5,700人削減し、11,100人になっている。女性社員は採用抑制で減らし、男性社員には出向、転職先の斡旋に努めたが、会社生き残りのため労働組合がよく理解して協力してくれた。
繊維事業の合理化を進める一方で、非繊維事業の拡大に人材、資金を積極的に投入した。ポリプロピレンに続き、ポリエステル、ナイロンのフィルム分野に新規参入、さらに活性炭素繊維、逆浸透膜も事業化した。包装用フィルム、樹脂、生化学、フィルターなど非繊維部門の売上高は社長に就任する前の52年度で113億円と、全社の売上高の4%を占めるに過ぎなかった。これを社長を退く58年度には、売上で約4倍の453億円、売上高構成比で13%まで引き上げることができた。
しかし思い通りにいかなかったこともある。人工心臓など医療機材は軌道になっているが、期待をかけていた急性心筋梗塞治療薬TPAは、米ジェネンテックとの特許問題で開発につまずくなど、東洋紡の医薬事業は離陸したとは言えない。非繊維事業拡大に今一つ持続的な展開力を欠いて、私は責任と焦燥を覚える。