掲載時肩書 | ワコール会長 |
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掲載期間 | 1990/10/01〜1990/10/31 |
出身地 | 宮城県 |
生年月日 | 1920/09/17 |
掲載回数 | 31 回 |
執筆時年齢 | 69 歳 |
最終学歴 | 商業高校 |
学歴その他 | 旧制八幡商業 |
入社 | アクセサリー行商 |
配偶者 | 父の紹介娘 |
主な仕事 | インパール生存(3/55)、「ブラ・パット」和江商事、宇野千代マフラー、欧米視察、ワコール、服飾文化研究財団、政経塾 |
恩師・恩人 | 依田喜直、 |
人脈 | 木原光治郎、越後正一、川瀬源太郎、宇野宗佑(八幡)、団令子(CM)、吉田正(社歌)、三宅一生、稲盛和夫、松下幸之助、 |
備考 | 父近江商人 |
1920年9月17日 – 1998年6月10日)は宮城県生まれ。日本の実業家。ワコール創業者。百貨店の友人が持ち込んだブラ・パットをヒントにブラジャーの開発・研究に取り組み、女性の下着文化をリードした。京都商工会議所会頭としても活躍。1945年(昭和20年) – インパール作戦に従軍するが生還。1946年(昭和21年) – 復員当日、創業。和江商事(ワコールの前身)創設。アクセサリー販売を行う。1949年(昭和24年) – 京都百貨見本市でブラジャーを出品。和江商事株式会社設立。代表取締役社長に就任。「ブラジャーでビルを建てた男」として有名。
1.インパール作戦
昭和18年(1943)6月、南方に転進した。インド東部の制圧を目的とするインパール作戦への参加だった。この作戦の開始は19年3月。インパールはインド北東部の都市で盆地にある。第6中隊は水源、橋梁の爆破など後方を断つのが任務だった。我々が最前線に到着すると、第二大隊の主力部隊はすでに壊滅的な打撃を受けていた。小規模の戦闘を繰り返しながら日本軍を奥地に引きずり込むという、イギリス軍の陽動作戦にはめられたのだ。敵は制空権を握り、インパール高原に戦車や重火器を整え待ち構えていた。
無傷の第6中隊約200人はインパールの市街北方にある要衝、エクバン高地の奪回を命じられた。敵は山の上から絶え間なく砲火を浴びせる。しかも英印軍といっても実際の戦闘員は勇猛で知られるインドのグルカ族。銃身が焼けて真っ赤になるまで反撃したが、終始苦戦を強いられ伊藤中隊長も戦死した。明け方までに生き残っていたのはわずか40人足らずだった。
昭和20年(1945)6月、1年3か月かかってタイとビルマ(現ミャンマー)の国境を越え、タイの番本に集結した。火器、弾薬の輸送も車両が使えず、馬や牛に頼らざるを得なかった。その牛馬を押し上げるための兵隊を各部隊から集める始末で、戦力面で大きなハンディを負っていた。おまけに食糧、火器の補給もない。作戦参加兵員のうち8割強が戦死、戦病死、行方不明、病患後送である。
生き地獄としか言いようのない戦いだった。人柱となった戦友の背や白骨を橋にして渡った。そんな非道な行為はいかに極限の戦場とは言え、まともな神経で出来るものではない。敗走に次ぐ敗走で55人いたわが小隊の生き残りはわずか3人だった。
2.復員日が創業記念日
昭和21年(1946)6月15日早朝、5年ぶりに京都の土を踏んだ。直ぐに中京区二条東洞院の自宅に向かい、両親や妹と無事を喜び合った。裏に叔父が寄宿しているというので挨拶に行った。そこに戦時中、叔父が島津製作所に徴用されていたころの上司であった井上早苗さんが訪ねて来た。井上さんが「こんな商売を始めたんや」と広げたのは、鮮やかな色彩の箱に収められた商品。「数珠でっか」と問えば「あほかいな、模造真珠のネックレスや」。進駐軍相手の土産物屋に卸しているが、他に適当な店を探しているという。
すっかり忘れていた商売人のムシがうずいてきた。戦前、父の仕事を手伝った際、私が開拓した京都・御池通りの趣味の店、ハナフサを思い出しさっそく出向いた。帰国の挨拶もそこそこに、模造真珠を扱っているかと訊ねると、「時々客から問い合わせはあるけれど、仕入れ先がわからへん」という答え。
こうなると話は早い。ついでにハナフサで評判の良いブローチなどのサンプルをもらい、これを井上さんに売り込んだ。二人の間を取り持っているうちに欲が出てきた。せっかくの機会だ、自分でもやってみようと双方からトランク一杯の商品を借り受けることに成功した。こうして復員の初日は暮れた。復員記念日変じて創業記念日になったのである。
3.ブラジャーとの出会い
昭和23年(1948)6月、主力商品のブロ-チの売行きがパッタリ止まってしまった。何か変わるものはないかと迷っていたら、四条通りの得意先から一人の男を紹介された。戦前、百貨店の洋装部に勤めていたという安田武生君で、彼は布製のまんじゅうのような奇妙な物を持ち込んできた。
アルミ線をらせん状に巻きあげたスプリングの上に古綿を被せ、全体を布で覆っている。これを女性の胸に当て、ふっくら見せるのだという。知り合いの洋装学校の園長に見せたら、「ブラ・パット」と命名してくれたそうだ。安田君の説明はこうだ。「これからの日本の女性は間違いなく洋装化する。その際、大事なのはプロポーションだが、日本の女性のバストラインは低くて見栄えがしない。男の背広がショルダーパッドで肩の線をきれいに見せているように、ブラ・パッドで形を整えたらどうだろうか」。
「これはいける」。直感が働いた。体形を気にしない女性なんていない。繊維で何かしたいと考えていた私の気持ちにピッタリ合った。関西だけでなく、東京でもきっと受け入れられると思った。それまでの商圏は東は名古屋までだ。チャンス到来と東京行きの夜行列車に飛び乗った
4.日本初の下着ショーの開催
ブラジャーやコルセットといった洋装下着の商売は百貨店に食い込むのが一番、と百貨店攻略に全力を挙げた。大阪は高島屋大阪店を皮切りに、昭和27年(1952)秋までにほとんどの百貨店と取引ができた。しかし、大阪では阪急百貨店だけが未開拓だった。入り込む方法はないかと手を尽くしているうち、「増築するホールで下着ショ―ができないか」との話が舞い込んだ。これ幸いと二つ返事で引き受けたものの、さて、よくよく考えたらこれは難題だ。その当時、下着モデルになってくれる女性なんているわけがない。洋装学校などあちこち駆けずり回っては「決していかがわしいものではない」とひたすら低姿勢で頼み込んだ。
かくて「男子立ち入り厳禁」の完全ガードのもと、日本初の下着ショーが開催された。ブラジャー、コルセットなどファンデーションでプロポーションを整え、その上に服を着るという習慣がまだあまりないころである。徐々に下着を身に着けていくこのショーは、上から脱いでいくストリップに対し、「逆スト」との言い方を頂戴し、バカ当たりした。28年から29年にかけて、どの百貨店も競って下着ショーを企画、全盛時代となった。
5.海外で現代日本画展の開催
昭和58年(1983)、私が印象派の絵画、それも女性像のみを集めていたところ、馴染の画商が、「日本の先端技術が世界で評価されている割に、背景となる文化が欧米に紹介されていない。絵画の展覧会を開いたらどうか」と持ちかけてきた。日本には古来優れた文化があるこれを海外に紹介したいと、早速、京都国立近代美術館長の河北倫明さんに相談に行くと、「ぜひ実現して欲しい」と励ましてくれた。
どうせやるなら日本画に絞ろうとなった。平山郁夫、加山又造氏ら現代の日本を代表する画家48人の絵を超党派で一堂に集め、50号で揃える企画が纏まった。東山魁夷氏の「山霧幽玄」、高山辰雄氏の「午後の花と鳥」、上村松篁さんの「暖日」など大作ぞろいだ。これだけの本格的な海外展覧会は、ホテルオークラの大倉喜七郎さんが昭和初期にローマで開いて以来といわれた。
米、英、仏など5か国でざっと一年間巡回する計画だ。試算したら費用は8億円。私の発想でも会社に迷惑はかけたくない。それにワコールの社名を出さない形にしたかった。だれか仲間を引き入れようと算段、結局、京セラの稲盛和夫君を誘い込んだ。稲盛君は京都の大正、昭和生まれの経営者で構成する「正和会」のメンバーであり、日ごろから文化事業に関心を示していた。
60年春、パリを皮切りにスタートした「現代日本画展」は合わせて11万5千人の観客を呼び、各地で「日本再発見の貴重な機会」と高い評価を得たのだった。