掲載時肩書 | 前東京銀行会長 |
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掲載期間 | 1968/04/29〜1968/05/29 |
出身地 | 徳島県知恵島 |
生年月日 | 1903/01/28 |
掲載回数 | 31 回 |
執筆時年齢 | 65 歳 |
最終学歴 | 東京大学 |
学歴その他 | 五高 |
入社 | 横浜正金 |
配偶者 | 牧野英一教授娘 |
主な仕事 | 近衛兵、インドネシア、ジャワ、ロンドン、上海、東京銀行、ソ連東欧貿易会 |
恩師・恩人 | 小泉八雲 五高師、吉野作造教授 |
人脈 | 徳島中(賀川豊彦・原安三郎、工藤昭四郎)五高(池田・佐藤・一万田尚登・安藤豊禄・森永貞一郎・宮崎輝) |
備考 | クリスチャン、華麗な閨閥 |
1903年1月28日 – 2000年8月27日)は徳島生まれ。実業家、経済学博士。東京銀行頭取を務めた。終戦後、GHQの命令により、横浜正金銀行改組室長に任命されて整理にあたり、東京銀行を創立した。1952年にサンフランシスコで行われた対日講和条約の調印では吉田茂首相の経済演説の原稿を書くとともに、その講義を一週間続けて行った。国際金融問題の権威で、経済審議会、関税率審議会などで活発な発言のかたわら、世界主要諸国との貿易促進にも努め、海外金融界に名を成した。
1.横浜正金銀行の創立由来
私は昭和3年(1928)4月から正金行員として出勤することとなった。この銀行が創業したのは、明治12年(1879)12月11日であった。それまでわが国では、未だに通貨制度が確立せず、為替相場は、在横浜の外国銀行支店が独占的に建て、貿易為替の利益が彼らにろう断されていた。その状況を打開するため、当時としては破天荒に大きな、資本金300万円をもって設立された。創立に当たっては、福沢諭吉の強力な進言とそれを受けて大隈重信(当時大蔵卿)の推薦があって実現したという。
もっとも、創業以来終始、大蔵省、日銀から強力なバックアップがあったのも見逃せない。これも正金発展の大きな力となった。したがって、正金の人事を見ると、当初は大蔵、日銀、正金の三社間に直接、間接の交流が見られ、大蔵、日銀から正金の頭取になった人に、高橋是清、三島弥太郎、井上準之助、梶原忠治の方々がおられる。純然たる正金出身者が就くようになったのは、大正11年(1922)児玉謙二頭取が実現した以後のことである。この頃から、正金は世界最大の外国為替銀行の一つに数えられようになった。
2.吉田茂総理のジョーク
吉田さんは私が横浜正金のロンドン支店に在勤していた昭和11年(1936)に松平恒雄大使の後任としてロンドンに赴任してこられた。当時吉田さんの親戚にあたる伊集院虎一君もロンドン支店に居て、私は彼の紹介で親しくしていただいた。いろいろ茶目っ気ぶりを発揮したジョークをお聞きしたが、それを紹介する。
天国といえば、吉田さんは生前、「天国どろぼうをするよ」と言っておられたのを思い出す。吉田さんがローマ法王から未信者として最高の勲章を授けられたときだ。「堀江君、ぼくもこれで天国に行けるだろうね。しかし、私は仏教のためにも多少協力したから、阿弥陀様が極楽へ来いと言われるかもしれない。また皇学館大学にも関係しているので、やおろずの神々が高天原へご招待くださるかもしれない。だが、天国や極楽や高天原は案外つまらんかもしれないね。長年付き合った友人はみな悪人どもだから彼らは地獄におるはずなんで、私一人天国では退屈するに違いない。どうも地獄の方が面白うそうじゃないか」と相変わらずの冗談をいわれた。とにかく、私の知っている限りでは、吉田さんは世界各国から贈られた数多くの勲章のうち、このローマ法王からの勲章を最も喜んでおられた。
3.横浜正金が東京銀行に
昭和21年(1946)7月にGHQから正金解散とその第二銀行の在り方について正式なディレクティブがきた。その内容は、まず在外資産負債と政府補償関係とを正金に残したまま閉鎖し、以後は特殊清算機関とすること、国内の資産負債は新銀行を設立して、これに包括継承させること、新旧両銀行の関係は明確に区別し、新銀行の名称は旧銀行正金と類似の行名は禁ずる、というような厳重な命令であった。
その後、新名称の東京銀行は昭和21年(1946)12月16日に発足したが、資本金は5千万であった。ここに至るまでに、新銀行の経営陣は、正金のめぼしい先輩連の多くが公職追放令に該当したため、適任者がなく、当時の大蔵大臣渋沢敬三氏、日銀総裁の新木栄吉氏に人選を託した結果、日銀出身であり、戦争末期に三井信託銀行の専務取締役を辞して、奈良の生駒山に引き込んでおられた浜口雄彦氏が推薦された。浜口さんは金融解禁当時の首相浜口雄幸氏の御曹司で人格・才幹とも申し分ない人であり、幸にその受諾を得ることができた。これまで多くの人々の協力に負うところ大であったが、私自身もあちこちと飛び回らねばならなかった。GHQとはもちろんであるが、大蔵省では大臣の渋沢敬三さんを初め、官房長の福田赳夫氏や愛知揆一氏、終戦連絡事務を担当していた正金出身の木内信胤さんら多くの人にお世話になった。