政治
| 掲載時肩書 | 衆議院議長 | 
|---|---|
| 掲載期間 | 1988/07/01〜1988/07/31 | 
| 出身地 | 熊本県 | 
| 生年月日 | 1916/07/18 | 
| 掲載回数 | 31 回 | 
| 執筆時年齢 | 72 歳 | 
| 最終学歴 |  東京大学  | 
| 学歴その他 | 成城高 | 
| 入社 | 厚生省 | 
| 配偶者 | 母方親類娘17歳 | 
| 主な仕事 | 八代市役人、衆議員29歳、文教族、欧米視察、国民年金、大学紛争、防衛計画大綱、平和部隊、国立劇場 | 
| 恩師・恩人 | 石井光次郎 | 
| 人脈 | 湯野正憲、鳩山一郎派、大達茂雄、安倍晋太郎、武見太郎ケンカ、加藤一郎(成城下) | 
| 備考 | 政治家3代(代々地主) | 
1916年7月18日 – 2004年1月13日)は熊本生まれ。政治家。坂田は、三木武夫首相の在任中に訴追された田中角栄と親しかったため、後年「もし法相に就任していたら苦悩しただろう」と回顧した(田中と坂田は当選が1期違いであり、同じ吉田学校出身でもあった)。いわゆる三木おろしの際には、三木首相の退陣を主張する挙党体制確立協議会に所属する閣僚が軒並み三木に反旗を翻す中「防衛庁長官は三自衛隊の長に殉じる」と中立の立場を示した。衆議院議長(第64代)、法務大臣(第40代)、防衛庁長官(第33代)、文部大臣(第91・92代)、厚生大臣(37代)を歴任した。父は衆議員と八代市長を務めた坂田道男。
1.初登院
 戦後初の第一回総選挙は昭和21年(1946)4月10日に行われた。幸い初当選した国会召集日は5月16日だった。新橋駅から議員専用バスで国会議事堂へ向かう。もちろん呉越同舟、与野党相乗りである。
  焼け落ちた瓦礫の向こうに議事堂が見え隠れする。高い建物がほとんどないからだ。そんな焦土の中でも、焼け残った樹々は既に新緑にもえ、生命をみなぎらせていた。そして空は青かった。目の前にした議事堂には、爆撃の跡がない。そのことが、神聖なデモクラシーの殿堂にふさわしいと思えた。正面の玄関は壮麗だった。そこに降り立った私は、国民を代表する自分の責任がいかに重大かをひしひしと感じた。
  ずらりと並んでいる職員の一人に名刺を差し出すと、「坂田先生!」という声が飛んだ。はっとして振り返った途端、掲示板の赤い名札が反転して白い名札に変わった。それが登院した印なのである。モーニング姿の書記官の前で当選証書の対照を終えると、議員バッチが手渡された。それを胸に付けて赤いじゅうたんを歩いて二階の自由党控室に入った。
2.私の文教・文化政策
 厚生大臣から文部大臣になる昭和43年(1968)までの10年間が、私の政治家としての充電期間だった。この充電期の成果でした主要なことは、「国立青年の家」を創設したこと、「日本青年海外協力隊」(平和部隊)をつくったこと、「国立劇場」を完成させたこと、「国民のための大学」を発表したことなどである。
  戦後の教育は、学校教育も社会教育も、自分のことのみを考える風潮が強く、世のため人のために何をなすべきかを考えない。これでは国の将来はあやうい。そのためには、青年たちが自然に学べるような機会を与えなければならないと痛感していた。その国内版が「国立青年の家」であり、海外版が「日本青年海外協力隊」だったのである。
  こうした文化的事業には予算が付きにくい。私は岸総理に直接そのフィロソフィー(哲学)を説き、総理の予備費から最初の調査費を付けてもらった。その頃の岸総理の秘書官が安倍晋太郎君だった。
3.東大紛争
 昭和43年(1968)11月30日、第二次佐藤内閣の改造人事で文部大臣に任命されたが、その前日に私は自民党文教制度調査会長として、「大学問題に関する報告」をまとめた記者発表をしていた。だから、私としては、この大学問題は私でなければできないという自負と気負いがあった。
  私の基本認識は、暴力学生を治安維持的な意味で排除するだけでは問題の解決にはならない。その背後に高度経済成長期を通じて起こった急激な社会的変化と、大学自体の役割の変化などが複雑に絡み合っており、かっての象牙の塔から開かれた大学への脱皮が求められている、したがって紛争の解決を急ぐあまりに、治安問題として対処したのでは、何も解決したことにならない、と考えていた。
  当面の問題は44年度の東大の入学試験をやるかやらないかだった。たまたま東大の学長代行が成城高校後輩の加藤一郎君だった。二人は新聞社の人たちを巻いて、何回か秘密の会談をもった。しかし残念なことに、学生との収拾がつかず、翌年1月16日夜、加藤学長代行は警察力の出動を正式に要請し、1月18日、19日の機動隊導入となった。翌日佐藤総理と私は現場視察したが、荒廃ぶりは予想をはるかに超えるもので、入試中止が決定したのだった。
| 坂田 道太 さかた みちた  | |
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 ![]() 文部大臣就任に際して公表された肖像 (1968年 撮影)  | |
| 生年月日 | 1916年7月18日 | 
| 出生地 |   | 
| 没年月日 | 2004年1月13日(87歳没) | 
| 出身校 |  東京帝国大学文学部独文科 (現・東京大学文学部言語文化学科)  | 
| 前職 | 石井光次郎商工大臣秘書官 | 
| 所属政党 |  (日本自由党→) (民主自由党→) (自由党→) 自由民主党  | 
| 称号 |  従二位 | 
| 親族 | 父・坂田道男 | 
| 在任期間 | 1985年1月24日 - 1986年6月2日 | 
| 天皇 | 昭和天皇 | 
| 内閣 | 鈴木善幸改造内閣 | 
| 在任期間 | 1981年11月30日 - 1982年11月27日 | 
| 内閣 |  三木内閣 三木改造内閣  | 
| 在任期間 | 1974年12月9日 - 1976年12月24日 | 
| 内閣 | 第2次佐藤第2次改造内閣 | 
| 在任期間 | 1968年12月10日 - 1970年1月14日 | 
| 内閣 |  第2次佐藤第2次改造内閣 第3次佐藤内閣  | 
| 在任期間 | 1968年11月30日 - 1971年7月5日 | 
その他の職歴  | |
|   (第2次岸内閣) (1959年1月12日 - 1959年6月18日)  | |
|   (熊本県全県区→) 旧熊本2区 当選回数 17回 (1946年4月11日 - 1990年1月24日)  | |
|   総裁:中曽根康弘、竹下登、宇野宗佑、海部俊樹 (1986年 - 1990年)  | |
坂田 道太(さかた みちた、1916年〈大正5年〉7月18日 - 2004年〈平成16年〉1月13日)は、日本の政治家。位階は従二位、勲等は勲一等。
衆議院議長(第64代)、法務大臣(第40代)、防衛庁長官(第33代)、文部大臣(第91・92代)、厚生大臣(32代)、衆議院議員(17期)等を歴任した。
