掲載時肩書 | 囲碁九段、本因坊・名人・王座 |
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掲載期間 | 1964/10/24〜1964/11/12 |
出身地 | 東京都 |
生年月日 | 1920/02/15 |
掲載回数 | 20 回 |
執筆時年齢 | 44 歳 |
最終学歴 | 小学校 |
学歴その他 | |
入社 | 9歳で院生 |
配偶者 | 父・碁仲間メイ |
主な仕事 | 軍需工場、棋院脱退し戻る、本因坊に挑戦、訪中囲碁団、 |
恩師・恩人 | 増淵辰子 |
人脈 | 藤沢朋斎、橋本宇太郎、高川格、藤沢秀行、呉清源、木谷實、津島寿一、 |
備考 | 父のカケで代打ち |
1920年(大正9年)2月15日 – 2010年(平成22年)10月22日)は東京都うまれ。囲碁棋士。、日本棋院所属、増淵辰子八段門下、九段。本因坊戦で7連覇他、選手権制初の名人・本因坊、7タイトル制覇、タイトル獲得64回など数々の記録を持つ、呉清源と並び称される昭和最強棋士の一人。切れ味の鋭いシノギを特徴として「シノギの坂田」「カミソリ坂田」の異名を持ち、数々の妙手、鬼手と呼ばれる手を残している。また棋風の柔軟性から「なまくら坂田」というあだ名もあった。また布石での三々を多用した。
1.院生になる(小学校3年生)
増淵辰子先生の門下になってまもなく、私は先生の肝いりで、日本棋院の院生となった。院生のケイコ日は土曜である。増淵門のケイコは金曜だから、これで金土の2日、正式に修業するようになったわけだ。
日本棋院には院生を育てる機関として少年研究会があった。師範は本因坊秀哉先生はじめ中川亀三郎らの諸先生で、交代に顔を出しておられた。秀哉先生の指導法は、何子おいて打つという常法のものでなく、先番で打たせる早碁であった。当時の私たちの目標は私より1つ上の藤沢朋斎さんだった。
院生の手合いは、現行のに似ていて初段以上の大手合いに参加するための予選手合いであった。だから、その予選手合いに参加し、合格点をとるのが院生の最終目的だった。その入段のチャンスは年に一回で、合格者は2名ぐらい、まことに狭き門であった。
2.本因坊挑戦者に
昭和26年(1951)は、私が脚光を浴びた最初の年だったと思う。かって雑誌が催した藤沢(朋)、高川格、坂田の若手三羽ガラスのリーグ戦や呉清源さんとの三番碁はプロ筋だけの評価で、アマチュア愛好家には必ずしも私の名前は出ていなかった。その年、本因坊の挑戦者を決めるリーグ戦で、私は木谷實さんを決勝で破り橋本宇太郎本因坊に対する挑戦権をにぎった。
3.本因坊戦(3対1から逆転負け)
本因坊挑戦者になったが、橋本さんの名声、キャリア、実力の前には、私などまるでチンピラ同然のものであったろう。私は役者が違うことをよく知っていた。勝てないまでも、自分の力を試すまたとないチャンス。私は謙虚な気持ちで手合いに臨んだ。
7番勝負の第1局、先番ながら1勝を挙げ、私は幸先いいスタートをきった。なるようにしかならない、力いっぱい打つだけだ、という気持ちがもたらした無欲の勝利といえた。そして3対1絶対の優位になった。するともう負けることなど考えなかった。橋本さんもみんなが言うほど強くはないんしゃないか。本因坊になったら、名前を何と付けようか、など甘ったれ気分で宙に浮いていた。
するとズルズルと負けはじめ、後1勝の前で敗れたのである。あと1勝・・それがどんなに難しいものか、私は初のヒノキ舞台で貴重な経験を積んだ。敗因は何と言っても安易さ、あと1勝を掴まえきれなかった心の未熟さであった。
4.碁はマラソンと同じ(人生の縮図)
囲碁界では本因坊を名乗るのが最高の名誉だったが、碁の力では呉清源の方が上とみられていた時代があった。坂田は本因坊戦で橋本宇太郎に負けたけれど、一時3勝1敗と追い詰めた実績を相当評価された。そのため、呉清源と6番碁が企画された。それまで一度も名前負けで呉清源に勝ったことはなかったが、このときは4勝1敗1ジゴで勝ち、大いに自信をつけた。本因坊戦は10年後に9期連続保持の高川格と戦い勝つことができた。そして次のように書いている。
碁はマラソンのようなものである。息の長いゲームで、序、中、終盤のそれぞれについて、いくつかのヤマがある。そのくせ、ぎりぎりまでどっちが勝っているのかわからない勝負が多い。若いうちは、その長い道中を大過なく乗り切ることはむずかしい。精神と技(わざ)のバランスがとりにくいからだ。碁は技術だけのものではない。そういう意味では、若手の竹林(大竹英雄6段、林海峰7段)も、あと10年たたなければうまくいかないと思う。碁は人生の縮図である。
坂田栄男 二十三世本因坊 | |
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名前 | 坂田栄男 |
生年月日 | 1920年2月15日 |
没年月日 | 2010年10月22日(90歳没) |
プロ入り年 | 1935年 |
出身地 | 東京都 |
所属 | 日本棋院東京本院 |
師匠 | 増淵辰子 |
名誉称号 | 二十三世本因坊 |
概要 | |
タイトル獲得合計 | 64(歴代3位) |
七大タイトル合計 | 21(歴代6位タイ) |
通算成績 | 1117勝654敗16持碁 |
七大タイトル | |
名人 | 2期 (1963-64) |
本因坊 | 7期 (1961-67) |
王座 | 7期 (1961・63-64・66・70-72) |
十段 | 5期 (1966-68・72-73) |
二十三世本因坊栄寿(にじゅうさんせいほんいんぼう えいじゅ 1920年(大正9年)2月15日 - 2010年(平成22年)10月22日)本名:坂田 栄男(さかた えいお)は、囲碁棋士。東京都出身、日本棋院所属、増淵辰子八段門下、九段。
本因坊戦で7連覇他、選手権制初の名人・本因坊、7タイトル制覇、タイトル獲得64回(囲碁棋士の獲得タイトル数ランキング歴代3位)。など数々の記録を持つ、呉清源と並び称される昭和最強棋士の一人。切れ味の鋭いシノギを特徴として「シノギの坂田」「カミソリ坂田」の異名を持ち、数々の妙手、鬼手と呼ばれる手を残している。また棋風の柔軟性から「なまくら坂田」というあだ名もあった[1]。また布石での三々を多用した。
日本棋院理事長を1978年から1986年まで務めた後、1988年7月より日本棋院顧問。2000年2月15日に現役を引退。2009年より日本棋院名誉顧問。