坂口幸雄 さかぐち ゆきお

食品

掲載時肩書日清製油会長
掲載期間1987/07/01〜1987/07/31
出身地長野県
生年月日1901/02/24
掲載回数31 回
執筆時年齢86 歳
最終学歴
東亜同文書院
学歴その他
入社日清製油
配偶者見合い写真のみ
主な仕事大連支社、磯子工場、日本油脂協会、小判発掘(1億円)、サラダ油、ドレッシング、植物蛋白食品協会、中国油脂工業提携
恩師・恩人古沢丈作専務、福田清三郎社長
人脈大倉喜八郎(日清製油創業)、東海林太郎、佐賀潜、春名和雄、かしまし娘(CM)
備考社名は日本の「日」と清国の「清」から取り、日清製油
論評

明治34年(1901)2月24日 – 平成14年(2002)3月18日)は長野県生まれ。日本の実業家。日清製油元会長。 わが国は世界第二位の製油国となったが、その陰には油脂業界の第一人者・坂口幸雄氏の業績が大きく光る。

1.東亜同文書院に入学
大正10年(1921)4月、私はここに入学したが、ここは全国各県から2,3名が選抜されて、4年間留学する。入学する時、全員が東京の華族会館(旧鹿鳴館)に集合し、官政財界要人の訓示を受けた後、二重橋を渡って、宮城拝観を許された。ここを設立、運営した東亜同文会は、明治31年〈1898〉に発足している。貴族院議長、学習院院長、公爵という最高の身分と地位にあった近衛篤麿公が代表であった。その傘下には、政界、言論界はもとより、各界の有力者が参画したが、中核となったのは、漢口楽善堂を主宰した岸田吟香はじめ、日清貿易研究所の荒尾精(東方斎)、根津一(山洲)といった人たちである。会設立の趣旨は、「中国の保全」「中国の改善を助成する」ことにあった。背景として、中国はアヘン戦争以来、西欧列強に侵略蚕食され、それは日清戦争以後さらに激化した。日本はしかし、近代化を焦るあまり、「脱亜論」の風潮に押し流され、隣邦中国の運命には無関心であった。そんな時代にあって、深い憂慮を抱き、興亜の志に燃えたのが、荒尾、根津の先覚者だった。
 この思想を受け継ぎ、両民族の友好協力と人材養成を進めるべく、明治32年〈1899〉に東亜同文書院設立となった。

2.日清製油の設立
創始者である大倉喜八郎氏は、かねて満州(中国東北三省)の開拓に非常な熱意と大きな夢を持っていた。この地域の農産資源の中心は大豆で、その製品の豆かすは優れた肥料価値を持つ。明治20年(1887)代まで日本の農村は魚かすや堆肥を使用していたが、日清戦争後、この豆かすが輸入されて以来、肥料の主役になっていた。
 一方、肥料商を営んでいた松下久次郎氏も、日本の肥料界が有機肥料・豆かすの時代に入るという信念を持っていた。そこで横浜に豆かす製造工場を作り、肥料界の新人として注目を集めていた。両氏は急速に接近し、肝胆相照らす仲となり、明治40年〈1907〉、日清豆粕製造株式会社を設立。社名は日本の「日」と清国の「清」から取り、大正7年(1918)、日清製油と改めている。

3.油脂製造業の国際発展に進出
昭和30年(1955)福田清三郎社長の死去に伴い、私は社長に就任した。大連で満州特産物の輸出を手掛けて来た経験もあり、私はいつも国際的に飛躍するにはどうすれば良いか、を考えていた。製油産業は一にも二にも国際的産業であって、単に国内的なものではない、ということである。答えは一つ。大規模な臨海製油企業を建設することだ。まだ小さい当社としては、夢みたいな話だという人もいた。しかし私は、世界の製油産業に挑戦する近代的工場を建設することを決意した。
 33年(1958)、横浜市で磯子の海浜百万坪を埋め立てるという話を聞いた。私は早速、市の埋立事業局長に会いに行き、当社の工場建設の陳情・要請を行った。いろいろ曲折はあったが、34年に認められた。広さは6万坪(19万8千㎡)、代金は8億2千5百万円であった。その時の資本金7億5千万円より高い買い物をしたと、嘲笑される向きもあった。工場が大規模だと、大量の副産物、油粕、ミールができる。わが国の畜産振興政策に乗って、ミール需要は増大し、油の消費も順調に増えていった。
この工場で、量産、量販が成功するにつれ、他の製油メーカーも、臨界に進出していった。その先鞭をつけたことは、当社の誇りでもある。

4.日清サラダ油
日清製油といえば日清サラダ油である。この食用油は、ちょうど私が入社したころに製造、販売が始まっており、私はこの商品と共に歩んできたわけだが、一般に愛用され、「日清サラダ油」イメージが成熟したのは戦後のことである。
 明治から大正の中ごろにかけて、日本において普通の食用油といえば、ナタネ油だった。これが家庭では天ぷらなどに使われ、ゴマ油などは高級料理用であった。そんな時代にあって、当社はいち早く大豆からの食用油つくりに乗り出し、特に大連からの豆油輸出は盛んであった。
 優良な大豆油の生産には、高度の精製技術を必要とする。大豆油はにおいが残るので、これをなくすのも技術上の難関だった。関東大震災後の大正12年(1923)、ドイツからメルク博士を招へいし、最新鋭の設備を導入したが、これによって精製度の高い大豆油が得られるようになった。これがサラダ油として、翌13年に売り出した。今のサラダ油は、大豆を始め、採種、綿実、紅花など各種の材料を使うようになっているが、何より重要なのは、優れた精製技術である。私はこの技術向上のための投資に人一倍力を注いだ。

坂口 幸雄(さかぐち ゆきお、1901年2月24日 - 2002年3月18日[1])は日本の実業家日清製油元会長。長野県上高井郡川田村(現長野市)生まれ。

  1. ^ 坂口幸雄氏死去/元日清製油会長、元摂津製油会長”. 四国新聞社 (2002年3月21日). 2021年12月9日閲覧。
[ 前のページに戻る ]