土屋喬雄 つちや たかお

学術

掲載時肩書東大名誉教授
掲載期間1967/04/05〜1967/05/04
出身地東京都
生年月日1896/11/21
掲載回数30 回
執筆時年齢71 歳
最終学歴
東京大学
学歴その他二高
入社東大助手
配偶者養子先娘
主な仕事学生で弟の学費を稼ぐ、藤村操に同感、欧米留学2年、渋沢栄一伝、日本金融史資料
恩師・恩人福田徳三、大内兵衛
人脈渋沢敬三(二高)土井晩翠(二高師)諸井貫一、向坂逸郎、有沢広巳、美濃部亮吉、明石照男、
備考祖父・勝海舟の友(父は海舟秘書)
論評

1896年(明治29年)11月21日 – 1988年(昭和63年)8月19日)は東京都生まれ。経済学者。東京大学名誉教授。日本経済史専攻。日本資本主義論争では労農派の論客として活躍。人民戦線事件に連座し、大学を追放される。戦後、大学復帰。1954年に「封建社会崩壊過程の研究」により東京大学から経済学博士の学位を授与される。氏は高校時代に実家の没落から煩悶の虜になり、華厳の滝で投身自殺した藤村操を英雄視し、自殺の勇気のない自分を自嘲した時代の苦悩、また大学生時代に6歳下の弟を大学に行かせるために、新聞配達などのアルバイト時代の苦労記述は胸を打つものでした。

1.東京大学の教授陣(1918年当時)
大正7年(1918)、東大の経済学部に入ることができたが、私が講義を聴いた教授陣は次の通りである。経済学部が新渡戸稲造、金井延、山崎覚次郎、矢作栄蔵、河合栄治郎の諸教授、法学部は美濃部達吉、上杉、野村、松波、三浦の諸教授であった。
 新渡戸博士は、経済史と植民政策を講義されたが、非常な博識の大学者であり、かつ高邁な識見を持ち、非凡な風格を備えた大教授であった。金井博士の担当講座は工業政策であったが、同博士は明治30年前後の農商工高等会議や明治40年代の生産調査会の委員として、工場法の成立のために努力された進歩的な学者であった。私が講義を聴いた時は、老衰の段階におられた。
 当時新鋭の助教授または講師として経済学部のホープと見られた大内兵衛、森戸辰男、舞出長五郎、糸井靖之、櫛田民蔵の諸先生がおられた。財政学は馬場鍈一博士の講義を聴いた。

2.東大助手の仲間たち(1921年当時)
大正10年(1921)東京帝国大学助手を拝命し、経済学部勤務を命ぜられ、専攻は日本経済史となった。同年助手となった人には、諸井貫一、向坂逸郎、宇野弘蔵の3君がいた。諸井君は極めて篤学で、熱心に工業政策を研究しておられたが、秩父セメント株式会社の創設者で社長をしておられたお父さんのご希望で、同社の重役に転ぜられた。諸井君はピアノもよくし、英国流紳士の風格があった。
 向坂逸郎君は経済学史、宇野弘蔵君は経済原論を専行されていたが、向坂君は九州大学へ、宇野君は東北大学へ転ぜられた。向坂、宇野の両君がわが国の経済学界におけるマルクス学派の第一線学者であり、わが国経済学史上この両君のはたした役割の重要さは長く後世に伝えられるものであろう。
 翌大正11年(1922)の卒業生中から有沢広巳、大森義太郎らの諸君、12年以降は脇村義太郎、山田盛太郎、高橋正雄、美濃部亮吉らの諸君も助手になられた。これらの諸君から私は学問上多くの裨益をいたことを忘れることはできない。

3.渋沢栄一伝などを編纂する
昭和11年(1936)2月の二・二六事件の少し前のことである。仙台二高、東大経済学部の同窓生で、当時第一銀行の常務取締役であった渋沢敬三君から、次の要請を受けた。「祖父の伝記資料を編纂したいが、君は維新以後の財政経済史料の編纂に経験もあり、前に祖父の伝記を書いてくれていたこともあるので、君に編纂の主任を引き受けてもらいたい」と。
 私は昭和5年(1930)改造社の依頼で、「偉人伝全集」の1冊として「渋沢栄一伝」を書き、6年刊行したとき、渋沢君に資料を提供してもらったことがあった。私はこのとき渋沢栄一をもって日本資本主義史上の民間における最高指導者と評価し、とくに「論語と算盤説」あるいは「道徳経済合一説」に深い関心を抱いた。これは大事業であることにもひかれたので、喜んで引き受けた。
 この編纂事業の主体は財団法人龍門社(渋沢栄一の子弟・門下が明治19年(1886)に設けた修養団体)で、理事長は当時第一銀行頭取で渋沢栄一を岳父とする故明石照男氏であった。第一銀行本店5階で編纂に当たり、最も多い時は編纂員、写字生を合わせて25人が従事した。11年4月から18年3月まで満七年で一応終了した。その間、故明石照男氏と渋沢君には、非常にご懇篤なお世話をいただいた。

土屋 喬雄(つちや たかお、1896年明治29年〉11月21日[1] - 1988年昭和63年〉8月19日[2])は、日本経済学者東京大学名誉教授東京都生まれ。日本経済史専攻。

  1. ^ 署名なし 1989
  2. ^ 山口和雄 1988
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