掲載時肩書 | 経団連名誉会長 |
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掲載期間 | 1982/01/01〜1982/02/02 |
出身地 | 岡山県岡山 |
生年月日 | 1896/09/15 |
掲載回数 | 33 回 |
執筆時年齢 | 86 歳 |
最終学歴 | 東京工業大学 |
学歴その他 | 蔵前高工 |
入社 | 石川造船所 |
配偶者 | 石川島役員娘 |
主な仕事 | スイス留学、石川島芝浦タービン社長、本社石川島重工社長、石川島・播磨合併、東芝、経団連会長、行革会長 |
恩師・恩人 | 山内佐太郎校長、石坂泰三 |
人脈 | 茅誠司(大学同期)、土光ー田口-真藤体制、植村甲午郎、鈴木首相、中曽根首相 |
備考 | 日蓮宗、 睡眠5時間、母創設の橘学苑 |
1896年(明治29年)9月15日 – 1988年(昭和63年)8月4日)は岡山県生まれ。昭和時代のエンジニア、実業家。石川島重工業・石川島播磨重工業 社長、東芝 社長・会長を歴任、経済団体連合会第4代会長に就任し、「ミスター合理化」として「土光臨調」と称されている第二次臨時行政調査会でも辣腕を振るった。他方、橘学苑の理事長、校長を創設者の母から引き継ぎ、謹厳実直な人柄と余人の追随を許さない抜群の行動力、そして質素な生活から、「ミスター合理化」「荒法師」「怒号敏夫」「行革の鬼」「メザシの土光さん」などの異名を奉られた。 次男の土光哲夫は東芝タンガロイの元役員。また「FES☆TIVE」のメンバー土光瑠璃子と青葉ひなりは曾孫にあたる(青葉は土光の従姉妹)
1.両親の信仰
岡山一帯は、”備前法華“といって、昔から日蓮宗の信仰厚いところである。私の父母も、そうした土地の影響にもれず、ともに日蓮宗の熱心な信者であった。子供も、毎日父母と一緒に法華経を唱えさせられた。
父、菊次郎はどちらかというと盲目に近い絶対的信仰であった。例えば、長女の満寿子が結婚して、33歳の厄年に胸を患った。生死にかかわる重病であった。その時、父は「幼い子供もいて可哀そうだから、満寿子の身代わりになる」と、一切の楽しみを断つ願をかけた。そうすれば日蓮さまもきっとお救いになると信じた。それほど、信仰に絶対性を置いていた。平常の生活でも、病気は心の不始末から来るものとして、医者にかかったり、薬を飲むのを嫌い、それより信仰第一と考えていた。
母、登美の信仰は、父に勝るとも劣らない深さであったが、父よりは理性的であった。例えば、一番上の子を1歳で亡くしてからは、ほとんど毎日のようにお墓に参り、お経をあげていたが、次の子からの子育てには、胎教を実行したり、進んで科学的育児法を研究したりした。その母が70歳(1942)の時、「学校を建てたい」といい、横浜市鶴見区に中等部、高等部を擁する学校法人「橘学苑」を創設したのだった。
2.私の第六感(石川島重工業社長時代)
友人から、「土光さんは、ゴマ化し書類を見破る達人と聞いているが、このコツは?」という質問を受けた。別に“コツ”があるわけではない。提出したときの態度や言葉遣いで何となく、こりゃおかしいぞ、とピーンとくるわけだが、書類を一見して辻褄の合わない部分を素早く見つけ出すのは、得意な部類だろう。
設計を長く手掛けていると、おかしな部分はすぐわかる。設計は、Aから始めてZに至るまで、一つ一つ、合理的にきちんと積み重ねる。一か所でもいい加減な部分やゴマ化しはきかない。そういう手続きやプロセスを永年経験しているので、書類点検でも応用できるのである。
また、現場へ行って、機械の調子が悪いと、故障個所を見つけるのも早い。ジーッと機械音に耳を傾けるうち、これもある種の第六感だが、悪い箇所がピーンとわかる。私は最初の20年間は技師として、日本全国、機械修理に走り回った。その修理経験が第六感養成に役だったものと思われる。
3.東芝社長に就任早々
昭和40年(1965)5月、私は石坂泰三氏の懇請を受けて、東京芝浦電気の社長に“就かされ”た。与えられた責務は、減配続きの東芝立て直しである。就任後、直ちに、「一般社員は、これまでより3倍頭を使え、重役は10倍働く、私はそれ以上に働く」とハッパをかけた。10倍以上働く率先垂範は、私の出勤時間である。毎朝7時半には出社した。ところが、初出社の日、まさか社長がそんなに早く出てくるとは思わないものだから、受付では「どなたでしょうか」「今度御社の社長に就きました土光というものです。よろしく」などと言う珍妙な挨拶が交わされ、微苦笑を誘う光景が出現した。守衛がびっくりして最敬礼をしたのを覚えている。
最敬礼は東芝では礼儀正しくみんなする。私はドギマギするので、やめてくれ、と口で言っても無理だろうから、私も社員に対して最敬礼をすることにした。そうすると、逆に向こうが困る。そのうち、無くなった。
経営者の役目として取り組んだのが、権限委譲を100%するため、適材適所の人材配置であった。そのために、私は自己申告や社内公募の手段を採った。「自分はこれこれこういう職場が最適と思います」と申告させ、また、あるセクションでは特殊能力を持つ人が必要な場合、広く社内にそれを公募して求めた。
この制度を設けて、4年間で1600人以上の人間が異動した。だいたい、80%は成功したと思っている。また創造性開発の一手段として、私は「トップ指針抄」と名づけて、私が考え、また反省したことを毎月、社内報に流した。これは社員が自主的に行動する場合、トップのビジョンを知ることができるし、また反省の内容が、指針となることもある。
例えば、「60点主義で即決せよ。決めるときに決めぬは失敗」「人はその長所を見て使え。短所見るを要せず」などがあり、その中で「幹部は偉い人ではなく、つらい人だと知れ」というのがある。これは肩書を振り回さず、権限は全部譲って、ひたすら失敗の責任だけを負うつらい立場であるという意味であるが、私自身の実感である。
4.行政改革・会長引受けの背景(経団連会長時代)
私が経団連会長に就任した昭和49年(1974)以降は、日本の経済は目まぐるしい変化の波をかぶり苦境にあえいだ。石油ショック、インフレ、不景気、エネルギー、資源問題、貿易摩擦などである。そうした困難の中を、各企業は省エネルギー、節約、合理化など血の出るような減量経営に努めて何とかこれを乗り切ることができた。現在、まだ問題はあるにしても、一応、対応策に成功したと言っていいだろう。
民間は、こうして何とか整った。ところが官の方を見ると、ぜんぜん手付かずである。福祉国家を目指すのは結構だが、財政は膨れに膨れ、政府はムダを省こうとする節約や合理化の姿勢すらない。しかも、安易に「増税、増税」という。54年(1979)、遂にたまりかねて、「行政改革をやってから増税と言ってくれ。それをやらん限りは、”増税“の声は聞かんことにする」と言ってしまった。
行革は、一種の世直しである。国民の意識を変える息の長い国民運動である。そんな仕事に85歳の私が何故取り組まねばならないのか、本当はおかしいのだが、日本の将来について無関心でおれない以上、引き受けざるを得なかった。
最初の話があったのは、56年の1月頃だった。中曽根行政管理庁長官(当時)から第二臨調の会長を是非引き受けてもらいたいと電話があった。「明治生まれは、日本にはもう5%もいないのに、こんな老いぼれを使う必要はなかろう」と断ったところ、今度は鈴木総理(当時)からも、懇請が来て、その他友人にも攻められ、ついにお引き受けをした。しかし、臨調会長の辞令を渡された3月16日の5日前の11日、総理に呼ばれたとき、私は4か条の「申入れ事項」を出し、その第一条件に、行政改革の断行は、総理の決意あるのみである。私も最大の努力を払うが、総理もこの答申を必ず実行するとの決意を明らかにしていただきたい、旨を書いた。
鈴木総理はこれを受け、いろいろな機会をとらえて再三、「政治生命を賭ける」と言明した。
どこう としお 土光 敏夫 | |
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財界研究社『財界』新年特大号(1964)より | |
生誕 | 1896年9月15日 岡山県御野郡大野村 (現在の岡山市北区) |
死没 | 1988年8月4日(91歳没) 東京都品川区 |
出身校 | 東京高等工業学校 (現:東京工業大学) |
職業 | エンジニア、実業家、財界人 東芝社長・経団連名誉会長 橘学苑理事長 |
土光 敏夫(どこう としお、1896年(明治29年)9月15日 - 1988年(昭和63年)8月4日)は、昭和時代の日本のエンジニア、実業家。位階勲等は従二位勲一等(勲一等旭日桐花大綬章・勲一等旭日大綬章・勲一等瑞宝章)。岡山県名誉県民[1]、岡山市名誉市民[2]。
石川島重工業・石川島播磨重工業 社長、東芝社長・会長を歴任、日本経済団体連合会第4代会長に就任し、「ミスター合理化」として「土光臨調[3]」と称されている第二次臨時行政調査会でも辣腕を振るった。他方、橘学苑の理事長、校長を創設者の母から引き継いだ。また、質素な暮らしぶりで「メザシの土光さん」としても親しまれた。次男の土光哲夫は東芝タンガロイの元役員。また「FES☆TIVE」のメンバー土光瑠璃子は曾孫にあたる[4]。