掲載時肩書 | ピアニスト |
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掲載期間 | 2000/02/01〜2000/02/29 |
出身地 | 東京都 |
生年月日 | 1928/09/17 |
掲載回数 | 28 回 |
執筆時年齢 | 72 歳 |
最終学歴 | 東京藝術大学 |
学歴その他 | 東京音楽学校 |
入社 | 演奏会 |
配偶者 | 作曲家 ・西沢春子 |
主な仕事 | パリ、ベルリンフィル楽団、実験工房、仏→伊 →独、京都市立音大、国際審査員、 |
恩師・恩人 | レオ・シロタ、豊増昇、マルグリット・ロン先生 |
人脈 | 江藤俊哉、黛敏郎(1下)、団伊玖磨・芥川也寸志(1上)、斎藤秀雄(喧嘩)、川上源一、江尻宏一郎、武満徹、カラヤン、平松守彦、 |
備考 | 父:ピアニスト |
1928年9月17日 – 2004年10月7日)は東京生まれ。日本のクラシック音楽のピアニスト。戦後の日本の音楽界を演奏者・教育者としてリードした。レパートリーと録音・演奏回数ともに余人の及ばない域に達しており、没年の翌年にも演奏会のスケジュールが入っていた。園田の幼少期に急逝した父・清秀は、フランスでロベール・カサドシュに学んだピアニストであった。その方針により音楽の英才教育を受ける。1936年、父が他界。1939年からユダヤ系ロシア人ピアニストレオ・シロタの個人指導を受ける。
1.レオ・シロタ先生
東京・乃木坂にあったレオ・シロタ先生のお宅へ初めて行ったのは7歳くらいの時だった。以来、音楽学校へ入る直前まで、11年間も通った。
僕の早期教育の種は父がまき、シロタ先生が開花させたと言っていい。リストだろうとグラズノフだろうとベートーヴェンだろうと、そばで全部弾いてくれた。子供心に「すごい」と実感。一種の“刷り込み“教育で「僕も先生のように弾かなければいけない」と思った。
とにかく、11年間もブゾーニ直伝のビルトーゾ(名人)に師事できたのは大変な財産だった。僕は最初、シロタ先生のように手を横に広げて弾いていた。先生は手が大きくて、鍵盤の向こうのピアノの蓋に当たってしまう。作曲家で大ピアニストだったラフマニノフが、よく指を丸めて弾いていたのも長すぎたからだ。一般に手が小さい日本のピアニストには正反対の悩みである。シロタ先生はクレッシエンドではピアノが揺れるように、フォルテシモ(最強音)では顔が真っ赤になるくらい集中して、ピアニッシモ(最弱音)では撫でるように歌わせて・・・と弾き分けた。僕は「そうか、リストの曲はピアノが揺れるみたいに弾くのだ」と、体感を通じても学んだ。
2.絶対音感を軍が研究
終戦直前の1945年(昭和20)6月、僕は木更津(千葉県)の航空隊に呼び出された。音楽家の絶対音感を活用し、潜水艦の居場所を突き止めたり、爆撃機の高度や飛来方向を測定する研究のためだった。
実験では目隠しをされ、スピーカーが僕の周りを回る。音が「正面に聞こえる時」とか「左のこの角度で聞こえる時」に、「はい、と手を挙げてくれ」と言われ、「ここだ」と思って挙手をすると、必ずその位置にスピーカーがあった。今度は任意に戦艦、駆逐艦、潜水艦、商船の音を聴かされ、次いでそれらをめちゃくちゃに混ぜた上、「この音はどの船の音だ」と質問される。何でもピタリと当てた。また、B29の音を聴き、高度と方向を推定する実験でも当てた。全実験を通して僕の正解率は98%で、軍部は驚いたらしい。三浦半島(神奈川県)にソナー基地を設ける計画があり、絶対音感を艦船の識別に使おうとしていた。
3.帝王・カラヤン
戦後の欧州楽壇と音楽産業に君臨、「帝王」と呼ばれたヘルベルト・フォン・カラヤンが、NHK交響楽団(N響)を指揮するために初来日したのは1954年(昭和29)だった。僕はデビューから最初の渡欧までの期間、N響と数多く共演した実績を買われ、カラヤン指揮のベートーベン「ピアノ協奏曲第4番」を独奏する役目を仰せつかった。
カラヤンはベートーベンのピアノ協奏曲のオーケストラのトゥッティ(総奏)から間奏まで全部、第二ピアノで伴奏してくれ、非常に上手であった。後年、「帝王」として権力の限りを尽くす片鱗は全くなく、実に気さくなお兄さんみたいな態度だった。カラヤンは“流れる音楽”を求め、指揮棒を振り下ろした瞬間に音が出ないと怒り、N饗に近代的な演奏スタイルと植え付けようとした。カラヤンの指揮でピアノを弾くと、流線型のモダンな機械が傍で動くような感じがした。演奏会が終わると一言、「おまえ、欧州へ来い」と言われた。
4.欧州実力マネジャーの示唆
ヨーロッパの音楽界に引き立ててくれた実力マネジャー・パッシェ氏から「お前も髪が白くなったころ、いろいろのことが解かるだろう」と示唆された。
(1)語学を学ぶのに発音、構文を知り、どういう意味で言葉が並んでいるかを理解していくのと同じで、ただ音符を弾くだけでは音楽にならない。
(2)われわれは東洋人で、冷酷に言えばドイツの血も、フランスのエスプリも、ポーランドの香りも持たない。それだからこそ西洋の音楽史の勉強が欠かせない。
(3)ピアノは歌詞のない歌、無言の歌のようなものだ。背景にあるものを全部溜め込み、それが血となり、肉となって初めて指先から音楽となる。
5.人生の達観
「人生は悲しみと愛、失敗と挫折の繰り返しである。一見、淡々と映る精神構造には、多層的な傷跡が残っている。それらを含めたすべてが人生である」との達観もおぼろげながら理解できる年齢に僕は至った。欧州社会の歴史とともに発展してきた西洋音楽の演奏を専門とするのもまた、生涯かけての僕の闘いである。