掲載時肩書 | 能楽師・芸術院会員 |
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掲載期間 | 1969/10/10〜1969/11/03 |
出身地 | 東京都 |
生年月日 | 1874/07/07 |
掲載回数 | 25 回 |
執筆時年齢 | 95 歳 |
最終学歴 | 小学校 |
学歴その他 | |
入社 | 6歳で喜多宗家に養子 |
配偶者 | 囲碁家元の娘 |
主な仕事 | 9歳初舞台、11歳家元、呉清源の仲人、台湾、 セッカチ、芸談出版、日本能楽協会 |
恩師・恩人 | 喜多宗家の弟子達 |
人脈 | 頭山満・呉清源(妻の囲碁弟子)、後藤新平、徳川夢声(将棋)、 観世栄夫(弟子) |
備考 | 父旗本、趣味:釣り |
1874年(明治7年)7月7日 – 1971年(昭和46年)1月11日)は東京生まれ。喜多流シテ方能楽師で、喜多流十四世宗家。養子先は家元とはいえ、幼時は喜多流が極度に衰退しており、師匠運に恵まれず、梅津只円など多くの弟子筋や分家に師事し、苦心の末に独自の芸を確立した。新しい技法は取り入れず、伝統的な芸風を維持し、昭和を代表する名人となった。能静門の殿様では「謡藤堂、舞容堂」と言われた藤堂高潔侯と山内容堂侯が双璧だった。山内侯は早く亡くなられたが、藤堂侯からは後に私も「石橋」の獅子の舞などを教えていただいたと記述し、大名と能との密接な関係を書いてくれていた。当時、能役者は歌舞伎役者を一段下に見る習慣があったと書く。
1.宗家を継ぐ「鷺能」
11歳(1885年)で宗家を継ぎ、その披露の能で「鷺」を演じた。これは延喜の帝(醍醐天皇)に五位の位を与えられた鷺が舞うめでたい能で、14歳以下の少年か60歳以上の者でないと許されない。弟子家では70歳以上でようやく許される。いわば家元の能と言ってもよいもので、これを舞うことによって私は家元として名実ともにその存在を世に示すことになった。この日宝生九郎さんは「望月」を、梅若実さんは「住吉詣」を舞って、新しい家元の誕生を祝ってくれた。
この「鷺」は松田亀太郎に習った。松田が能静(先代家元)の舞台を見おぼえていてくれたのである。いつもの通り入谷のたんぼを通ると、白鷺が田に降りていた。このころも父はよく私について松田の家に通っていたが、父も能が好きだったのだろう。その父が、入谷のたんぼの鷺を見て、「あれをよく見ておけ。お能の鷺もあの意気だ」と言った。鷺は無心に首を振っている。その鷺の動作が何とはなしに私の心に残った。
また父は、上野動物園に私をよく連れて行ってくれ、一本足で休息している鷺をよく見た。当日舞台「鷺」では、頭の上に白鷺のかぶり物をのせ、白い装束を着た姿で思う存分舞うことができた。足の使い方の難しい能だが、私はそれを半分は松田から、半分は父と鷺とから教わったことになる。
2.道成寺を舞う
私は16歳(1890)のころから、何とかして「道成寺」が舞ってみたいと思っていた。「道成寺」は女の執念をあらわした能で、舞台に大きな釣り鐘をつって、嫉妬から蛇の心になった女がこの鐘のなかにとびこむ。そこへ行くまでに鐘の前で乱拍子という特殊な演技がある。これはシテの後方で小鼓ひとつが長い間を置いて囃すのに合わせて足拍子を踏んで行くもので、シテと小鼓の気合くらべともいうべき、壮絶なものだ。そうたやすく若い者が許してもらえるものではない。
私はしかし、早くこの曲を上演して一人前の能役者と言われたいという切実な望みがあった。しかし、喜多流の相談役格の飯田巽さん(後の日本銀行理事)も、紀喜和(きのきわ)も、宇都野の父も、まだ早いと言って反対だった。ところが、観世流の清廉さんが「おやりなさい」と言って、背中を押してくれ19歳で舞うことになった。
さて「道成寺」を舞うことになると、乱拍子の稽古といって100日の間、紀喜和に厳しく稽古を受けた。その上で、小鼓を幸流の三須錦吾さんにお願いして、鼓と呼吸を合わせねばならない。錦吾さんも熱が入る。
乱拍子の教わり始めは、まず錦吾さんが私の手をギュッと握って、二人とも腹の中で乱拍子の鼓を打つ。鼓には掛け声が必ず付くが、乱拍子の気合は格別なもので、グーッと息を引いておいて、刹那に激しい気合が声になって出る。この声が二人同時に出るようになれば及第で、ちょっとでも間違えば落第になる。錦吾さんにそうやって教わったものを、次には屏風を二人の間に立てて、顔も見えず姿も見えぬ状態で、やはり二人同時に掛け声を合わせられるようになるまで稽古をした。
このような厳しい稽古のおかげで、当日はどうやら無事に舞い納めることができたが、シテが鐘に飛び込むと同時に引綱を放して鐘をどっと落とす役―この役の呼吸がちょっとでも狂うとシテに大けががおこりかねない大切な役だが、この役を山内容堂侯に出入りしていた久与三という名人がやってくれた。
3.内弟子への教育
明治34年(1901)27歳ごろから内弟子をとるようになった。大抵は子供のころから私の家へ来て、成人し、その間には私の家から学校に行く者もあり、入営する者もあって、やがて能役者として一本立ちになって私の家を出るのである。私は父や妻と一緒に、この内弟子を礼儀作法や舞台の拭き掃除から、全てに厳しく仕込んだ。
内弟子たちには朝起きてから寝るまで着流しというものを許さない。必ず袴をはいていなければいけない。だから掃除は袴の股立ちをとる、つまり袴の左右を腰のところへたくし上げるという形でするのである。食事も粗末なものを食べさせ、家のすぐ前にあるポストにはがきを入れに行くにもいちいち私のところへ顔を出して「だれだれポストに行って参ります」「だれだれただいま帰りました」と言わせるようにした。すべて武士のしつけに近い、厳格な行儀を教えたのである。もっとも内弟子たちがこんな形で自由を束縛されていたわけではない。年長の者には私の代稽古で素人衆にお教えする機会もあり、また当時はよく「内弟子御中」という付け届けなどがあって、結構みな小遣い銭は持っていて、それで映画や外食に出ていたようだ。
私は相撲が好きで、よく内弟子たちを舞台へ集めて相撲を取ったものだ。舞台へ絨毯を敷いて、その四隅に一人ずつ誰かが坐って、そこを臨時の土俵にした。弟子の中には草相撲の大関まで行ったという坂安弼などという豪傑がいて、私はさすがにこの男とは相撲をとろうと思わなかった。