吉田蓑助 よしだ みのすけ

映画演劇

掲載時肩書文楽人形遣い
掲載期間2007/09/01〜2007/09/30
出身地大阪府
生年月日1933/08/08
掲載回数29 回
執筆時年齢74 歳
最終学歴
小学校
学歴その他
入社6歳10月
配偶者記載なし
主な仕事文楽(太夫、三味線、人形)、文楽分裂、父と確執と和解、百八会、海外公演、紋十郎師匠・玉男兄の追善
恩師・恩人吉田文五郎、桐竹紋十郎
人脈山川静夫(リハビリ戦友)、土門拳、大野伴睦(分裂仲介)、大江巳之助、吉田玉男、桐竹勘十郎(3男・弟子、姉三林京子)
備考父:桐竹 紋太郎
論評

1933年(昭和8年)8月8日 – )は大阪府生まれ。人形浄瑠璃文楽の人形遣い、文楽を代表する立女形として有名。父は二代目桐竹紋太郎、1940年6月に三代目吉田文五郎に入門し1942年3月に桐竹紋二郎と名乗る。翌年初舞台。1948年8月に二代目桐竹紋十郎門下となる。1961年6月三代目吉田簑助を襲名。1998年に脳出血のため楽屋で倒れたが熱心なリハビリの末、翌年夏の公演で奇跡的にカムバックした。2006年には5度目のフランス公演を行い、2007年にはフランス政府より芸術文化勲章コマンドゥールを受賞した。弟子に三代目桐竹勘十郎がいる。

1.苦しかった自主興行・・夜汽車で移動、大八車を引いて
昭和23年(1948)8月、待遇改善を求めて松竹と袂を分かったわれわれ組合系は自主公演を始めた。松竹の直営店はもちろん、息のかかった劇場からは締め出された。松竹の威光は大変なもので、全国浦々の主だった小屋はほぼダメだった。公演する場所は公会堂や学校の講堂が多く、キャバレーでも野外でも演じた。終戦から3年余り。食糧事情は悪く、インフレは続く。苦心惨憺して公演場所を確保しても、入りは悪く、給金も少なかった。暮らしは当然苦しい。
 浄瑠璃を語る、三味線を弾く、人形を遣う。それぞれが芸の精進に明け暮れていた文楽の人たちが劇場の確保から切符さばき、宣伝、列車や宿の手配、荷物は大八車利用までやるのだからたいへんだった。

2.兄弟子・先代桐竹勘十郎兄さん
自主興行の巡業から帰り、勘十郎兄さんの大阪・粉浜の自宅で、油揚げと大根を入れた鍋をつつきながら、たった一つの贅沢品のテレビを見ていた時のことだ。伴淳三郎主演の、馬の脚専門の下っ端歌舞伎役者のドラマだった。涙もろい勘十郎兄さんは途中から涙を流して見ていた。最後に主人公の嫁さんが「悲観しなさんな。あんたがいるから、拍手喝采を浴びる人がいるんじゃないか」と言ったとき、もうみんなで声をあげて泣いた。巡業の苦労も貧乏も思い起こせば金では買えない体験だった。懐かしい思い出だ。

3.紋十郎師匠の最期
昭和45年(1970)8月21日、紋十郎師匠が亡くなった。入院していた師匠の危篤の報に接して、病室に馳せ参じた。透明のビニールの囲いの中で酸素吸入器を付け、荒い息をする師匠が布団から細くなった左手を出して、しきりに指を動かしていた。ご家族たちは何を求めているのだろうかが分からずにいた。
 私ははっと気が付いた。人形の頭を動かす胴串(どぐし)が握りたいのだ。私は枕元にあった、お気に入りの娘の首を取って、囲いを持ち上げて胴串を握ってもらった。師匠は胴串の頷(うなずき)の糸を手繰って首を2,3度うなずかせると息を引き取った。人形遣いに生涯を捧げた人らしい最期だった。
 師匠は文楽のためになるなら、どんな条件の下でも全力を尽くして倦まなかった。京都のナイトクラブ「ベラミ」ではバンド演奏で人形を遣う企画も、女義太夫や長唄との共演も辞さなかった。これが紋十郎師匠の真骨頂だった。

4.生きた人形とは・・巨匠カメラマンが指摘
昭和56年(1981)に栗崎碧監督の映画「曾根崎心中」に出演した。大夫の語りと三味線に乗せて動き回る。吉田玉男兄さんが主役の徳兵衛、私が相方のお初などを遣った。カメラは巨匠の宮川一夫さんだった。
 お初、徳兵衛が命を絶った後、兄さんと私が人形から離れて画面から消えると、宮川さんが首をひねって「人形がただの人形にもどってしまうなぁ」と言った。NGだった。宮川さんの指示で私たちは人形を持ち直し、そのまま人形と一緒に地面に寝てOKがでた。自慢話のようで気が引けるが、人形に魂を入れる人形遣いの存在を名カメラマンが認めてくださったのだ。これ以後も玉男兄さんは「曾根崎心中」の徳兵衛を遣い続け、数ある持ち役中の白眉になった。

追悼

氏は2024年11月7日に91歳で亡くなった。「私の履歴書」登場は2007年9月の77歳のときでした。文楽でこの「履歴書」に登場は吉田難波掾(人形遣い:1958.9)、豊竹山城少掾(義太夫:1959.2)、桐竹紋十郎(人形遣い:1967.2)、吉田玉男(人形遣い:1991.9)、竹本住太夫(義太夫:1994.4)に次いで6番目でした。文楽では一番直近の登場者となります。

日本経済新聞の「評伝」では、下記の如く氏の芸の素晴らしさと真摯さを讃えていた。

「文楽の屋台骨、背負い続け」
父の二代目桐竹紋太郎は役に恵まれない不遇な人形遣いだった。簑助は物心つくころから父に付いて大阪・四ツ橋の文楽座に通ううち浄瑠璃のとりこになり、6歳で名人、三代目吉田文五郎に入門、人形遣いの卵になる。
小学校にはあまり行かずに「文楽学校」で学んだ。戦争が始まり、混乱のさなかだった。それから80年。山あり谷ありだった文楽の屋台骨をずっと背負い続けてきた。
真骨頂は女形。簑助が遣う女には艶と華、情感があった。役の内面に切り込み、優れた技量で繊細かつ緻密に遣った。秘めた悲しみ、切なさ、喜びが伝わり「人形に命が宿っている」と評された。
1998年11月、舞台で倒れた。脳出血だった。再起が危ぶまれたが翌年7月に復帰。執念でリハビリと筋トレに励んだ。奇跡の復活を遂げたが、言葉が不自由になった。
取材のとき、文楽の醍醐味を懸命に話そうとした。言葉が出てこない。傍らの人形に手を入れ、慈しむように首(かしら)を動かした。目の前で見て涙が出てきた。文楽の魅力が切々と伝わった。
苦難の時期がいつも頭にあった。49年に文楽は組合派の三和(みつわ)会と松竹派の因(ちなみ)会に分裂。簑助は当時の師匠、二代目桐竹紋十郎に従って少数派の三和会へ。劇場から締め出され、全国を行脚し百貨店の屋上や学校の講堂などでも公演した。貧しかった。
両派の統一は63年。身にしみて知った師匠や兄弟子の情熱と厳しくも優しい薫陶。だから簑助は次代を担う弟子や若手にとても優しかった。(元編集委員 中沢義則)

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