掲載時肩書 | 長唄唄方・芸術院会員 |
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掲載期間 | 1970/09/03〜1970/10/02 |
出身地 | 東京都 |
生年月日 | 1876/12/15 |
掲載回数 | 30 回 |
執筆時年齢 | 94 歳 |
最終学歴 | 寺子屋 |
学歴その他 | |
入社 | |
配偶者 | 時計屋娘 |
主な仕事 | 15歳家元、長唄研精会、琵琶、 オペラ入れ長唄曲64作、長唄吉住会、芸大教授、 |
恩師・恩人 | 杵屋六四郎 |
人脈 | 坪内逍遥、黒田清隆、大倉喜八郎、福沢諭吉(支援)、弟子(緒方知三郎、石坂泰三、黒川武雄) |
備考 | 養父・長兄 |
1876年12月15日 – 1972年2月27日)は東京新宿生まれ。吉住勘四郎の子。幼名は長次郎。3代目(実兄)の養子となる。1889年12月に4代目を襲名。1902年に3代目杵屋六四郎(後の2代目稀音家浄観)とともに長唄研精会を組織し、新曲を発表、歌舞伎の附属音楽であった長唄を、独立した演奏会用音楽にまで高めた。
1.長唄の心得
90年間長唄を唄い続けて感じたことは、若いころは、ただいい声を出して、うまくなろうということばかり考えていましたが、中年のころから間というものに注意をするようになりました。唄でも芝居でも、極端に言えばお茶でもお花でも、何でも間は大事なものです。特に60,70になってから間がいかに大事であるか痛感いたしました。
ところで、間の難しさがわかって、80を越すと、今度は気分を尊重するようになりました。つまり、間に気をつけてうまく唄おうという考えを捨てて、心を落ち着かせることが肝心だということがわかってきたのです。それと、唄でも芝居でもハラが大事です。ハラが入っていなければ芸になりません。そこで私は若いころから毎朝深呼吸をやっております。
2.長唄研精会の発足
当時、長唄は劇場と歌舞伎役者の従属物として踊りの地や、芝居のお囃子だけを勤めていたのです。それはそれで芸の修業にならないこともないのですが、劇場に従属しては、いつまでたても役者に頭が上がらず、場合によっては、役者の踊りやすいように、本来の長唄が崩されていく気がしてならなかったのです。
芝居も劇場、役者、観客という3つの柱で成り立っているように、すべて芸は作ったら発表して人に見聞してもらわなければ意味もないし、世間も認めてくれません。この考えを応援してくれる人も多くありました。その中には文化人の坪内逍遥、半井桃水、幸堂得知などの先生方や新聞記者でした。
そこで明治35年(1902)8月に「長唄研精会」が発足いたしました。時に私は27歳、杵屋六四郎は29歳。さて会は作ったものの、基金はゼロなので、30名たらずの出演者がそれぞれ2円ずつ持ち寄って、第一回演奏会を日本橋浜町河岸の日本橋倶楽部で開きました。
3.芸のクセ直しに黒田清隆総理大臣が
明治22年(1889)3月、私の13歳のとき、黒田清隆さまは総理大臣をしておられました。黒田様は私の長唄のどこがお気に召したのかわかりませんが、たいへんかわいがってくださりました。そのころ私は唄をうたう時、首を右に曲げるクセがありました。自分では意識していなかったのですが、黒田様は間もなく私のクセを発見されて、ある時「いくら一生懸命唄をうたっても、首を曲げてはうまく唄える道理がない。おれがそのクセを直してやる」とおっしゃり、唄っている最中に床の間の正宗の名刀を抜いて右手で持ち、左手で私の頭をまっすぐに押さえつけるのです。なにぶん13,4の子供のことです。首は痛いし目の前に抜き身の名刀がキラつき、恐ろしさにブルブル震えて泣き出してしまいました。でもこれでクセは直り感謝しています。
4.福沢諭吉先生
先生の三田のお宅へ伺ったのは、黒田様にお目にかかった3年ほどあとで、私が17歳のときでした。親しくなり冗談交じりで「三味線や長唄は洋楽の人気に負けているので、商売変えを考えなければ・・」というと「洋楽は洋楽で立派な芸だ。しかしお前たちは日本人であることを忘れてはいけない。日本の生んだ立派な芸術の邦楽というものがあるのだ。それをしっかり勉強して育てていくのがお前たちの役目ではないか」。慈愛のこもった先生のご教訓に私も弥十郎も一言もなく恐れ入ってしまいました。