掲載時肩書 | 日本水泳連盟会長 |
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掲載期間 | 1985/12/02〜1985/12/31 |
出身地 | 静岡県 |
生年月日 | 1928/09/16 |
掲載回数 | 30 回 |
執筆時年齢 | 71 歳 |
最終学歴 | 日本大学 |
学歴その他 | 日大予科 |
入社 | 大同毛織 |
配偶者 | 栗原大同社長仲人 |
主な仕事 | 1日2万m(50年・地球1周半)、左手中指損傷、英国五輪、米国遠征、アメーバ赤痢、水泳連盟、日大教授、水泳連盟 |
恩師・恩人 | 中村桂三、田畑政治、栗原勝一 |
人脈 | 河合浩、村山修一、フォード・コンノ、橋爪四郎、浜口喜博、永田雅一、清川清二、大島鎌吉 |
備考 | 健康優良児 |
1928年9月16日 – 2009年8月2日)は静岡県生まれ。水泳選手でありスポーツ指導者。フジヤマのトビウオの異名を持つ。敗戦国の日本は1948年(昭和23年)のロンドンオリンピックへの参加が認められなかった。日本水泳連盟はロンドン五輪の水泳競技決勝と同日に日本選手権を開催し、古橋は400m自由形で4分33秒4、1500m自由形で18分37秒0を出した。これはロンドン五輪金メダリストの記録および当時の世界記録を上回っていた。同年9月の学生選手権では、400m自由形で自己記録を更新する4分33秒0、800m自由形では9分41秒0を出し、これも世界記録を越える記録だった。しかし、日本が国際水泳連盟から除名されている時期の記録であるため、世界記録として公認されなかった。とはいえ、敗戦直後で日本人の多くが苦しんでいる時期に世界記録を連発する古橋は国民的ヒーローであった。
1.私は魚のよう
小学校4年から水泳を始めてから、50年近く水泳一筋で生きてきた。若い時は毎日6,7時間、2万mほど泳いだ。地球一周は約4万km。この前計算したら、私は今まで地球1周半ほど泳いでいる。不思議なもので、これだけ泳いでいると、人間の体は魚のようになってくるようだ。耳の中に水が入らなくなり、濁った水でも何コースの誰がどこを泳いでいるか、水の動きでわかるようになる。体に水があまり付着しなくなるので、プールから出て体を1,2度揺するだけで水は落ちてしまう。タオルでゴシゴシする必要はない。歩くより泳ぐ方が楽なので、「東京から大阪まで歩いて行け」と言われたら、私は泳いで行く。
2.左手中指の欠損・・ハンディが努力を生む
昭和18年(1943)、浜松二中(現浜松西高)の3年のとき、勤労奉仕の工場で働いた。何かの拍子でベルトを触った瞬間、ベルトに巻き込まれ、左手を歯車に挟まれてしまった。手を引き戻した時、中指の骨はぐちゃぐちゃになっていた。歯車に挟まれた時、「これでもう泳げなくなる」という思いと「両親に申し訳ないことをした」という思いが頭を駆け巡った。しばらく医者通いをしたが、動員の方はほとんど休まなかった。包帯を巻いてそれまで通り仕事をした。寒い日は特にズキズキ痛んだ。
ところで、左手の中指を失ったことは、その後の私に大きな影響を与えた。ハンディを背負ったことが、結果的に今日の私を築き上げることになったと言えるかもしれない。左手の中指がないと、左手でかいても水は抜けていく。人間の手は親指と中指で水に引っかかるようになっており、中指を欠くことは水泳選手にとり致命的なケガといっていい。
左手の水の漏れをカバーするため、いろいろ工夫した。右腕を鍛えて強化し、その右腕を有効に使うため、フォームを右オープンから左オープンに変えた。足も当時、6ビートから4ビートに変えた。私の専門の距離は、あまり足を動かすと、体力の消耗が激しいため、ポイント、ポイントで足を打ち、腕のかきとうまく連動することを重視した。左手はある程度リズムをとるだけで、実際に体を前に進めるのは右手のかきと足のけりだった。そのため変則泳法とみられた。
3.全米選手権で優勝
昭和24年(1949)8月16日に全米選手権がロサンゼルスで開かれた。当時、日本人の評価は低く、ジャパニーズではなくジャップだった。2日目の1500m自由形決勝は、私が1位となり2位橋爪四郎君、3位田中君と、世界記録も出し、日本選手の独演会だった。すると、現地の新聞の論調はガラリと変わった。日本人はジャパニーズになり、私は「フジヤマの飛び魚」という見出しがついた。「日本のプールは短い。時計の回りが遅いと書いたことは申し訳ない」という謝罪文のような記事が出た。
結局、私は400m、800m、1500m自由形と800mリレーに出て、全て優勝した。観客は1日目こそ7割の入りだったが、2日目からは超満員で、切符にプレミアムが付くほどだった。
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1955年 | ||||
選手情報 | ||||
フルネーム | 古橋 廣之進 | |||
ニックネーム | フジヤマのトビウオ | |||
国籍 | 日本 | |||
泳法 | 自由形 | |||
生年月日 | 1928年9月16日 | |||
生誕地 | 日本 静岡県浜名郡雄踏町(現・浜松市中央区) | |||
没年月日 | 2009年8月2日(80歳没) | |||
死没地 | イタリア ローマ |
古橋 廣之進(ふるはし ひろのしん、1928年(昭和3年)9月16日 - 2009年(平成21年)8月2日)は、日本の水泳選手でありスポーツ指導者。日本大学名誉教授。フジヤマのトビウオの異名を持つ。位階は従三位。
第二次世界大戦終了後の水泳界で次々と世界記録を打ち立てた。現役引退後は大同毛織(現 ダイドーリミテッド)に入社。その後、母校・日本大学の教授や日本水泳連盟会長、日本オリンピック委員会会長を歴任した。2009年(平成21年)8月2日、世界水泳選手権が開かれていたイタリア・ローマで死去した。