掲載時肩書 | 日本化薬社長 |
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掲載期間 | 1956/03/21〜1956/04/05 |
出身地 | 徳島県 |
生年月日 | 1884/03/01 |
掲載回数 | 13 回 |
執筆時年齢 | 72 歳 |
最終学歴 | 早稲田大学 |
学歴その他 | |
入社 | 薬丸金山(栃木) |
配偶者 | 記載なし |
主な仕事 | 金山スト解決、金港堂再建、日本硫黄、日本化薬 |
恩師・恩人 | 山本条太郎 |
人脈 | 坪内士行(逍遥息子)、雨宮啓次郎、大隈重信、福間甲松、山下亀三郎(山下汽船)、安田善次郎 |
備考 | 身体障碍者、父・蜂須賀家の家臣 |
1884年(明治17年)3月10日 – 1982年(昭和57年)10月21日)は徳島県生まれ。日本の実業家。日本化薬会長、東洋火災海上保険株式会社(現・セコム損害保険)初代会長、日本化学工業協会会長、政府税制調査会会長などを歴任し、日本財界の重鎮として活躍した。生家は江戸時代、蜂須賀家の家臣。自らが社長まで勤めた日本化薬は、太平洋戦争中も軍用火薬を製造せず産業用に徹していたため、戦後の公職追放を免れた。そのため、実業界の中心的存在として多くの財政要職を歴任し、幾多の経営不振の会社再建に手腕を発揮することとなり「会社更生の名医」と賞賛された。「私の履歴書」を日本経済新聞に発案した一人であり、第1回の鈴木茂三郎氏に次いで第2回目に登場した。
1.文部大臣に直訴(中学時代)
僕が12,3歳のとき、海軍大将で当時文部大臣の樺山資紀さん(樺山愛輔氏厳父)が徳島へ文教視察に来られた。僕はこの際どうしても文部大臣に言っておきたいことがあったので面会に行った。僕は新聞で樺山さんの滞在予定は大体1週間だと知っていたので2日目に行ってみると、門の所に巡査が二人、玄関にも二人おって、たちまち「こら、こら」と追い返されてしまった。
何度目かの朝、7時ごろから立っていた。11時ごろカラの馬車が来た。大将の大臣は軍服姿でなくモーニングだった。そこへ僕がつかつかと出ていくと、「馬車に一緒に乗れ」と言ってくれたので、早速訴えた。
「実は自分は昨年、体が悪いために中学1年から2年に進級した時に、就学を止められ退学させられた。残念でたまらぬ。文部省から日本全国にそういう指令が出ているのならおそらく多数の人が同じような状態に置かれていることでしょう。われわれのような体の悪い者は頭脳を使って仕事をするより道がない。自分たちのような者の中から、国のお役に立つ人が出るかも知れないではないか」と。翌年から撤廃された。
2.早稲田の忘れられない教授
自分でいうのもおかしいが、僕は大学時代はずい分勉強した。実際卒業まで1番で通した。忘れられないのは和田垣謙三という先生で、担当の経済学の話をそっちのけにして”君が代“の英訳を教えてくれた。そして、「きょう僕は牛肉を食べたい、食いに行かないか」と学生を誘ったものだ。こっちは当然先生におごってもらえると思っていると、「きょうは財布がカラだから君たちにたかるんだ」ときた。先生が学生にたかろうというのである。「先生、僕たち全部の金を集めても25銭ぐらいしかないから、これでは足りませんよ」。「それじゃ牛肉はよして豚にしよう。豚の方が安いだろう。それで足りなかったら君たちの上着を脱げよ」。
こっちは学生服一枚しかないのだから冗談ごとではない。「よしそれじゃ僕の上着を脱ごう」と言われた。
3.山本条太郎師の才覚と指導
山本さんという人は学歴はなかったが、常に国家的見地でものを見ていた。“私”の欲も零ではなかったが一般のそういう系列の人に見るような安っぽいものではなく、いつも天下国家を先に考える人であった。利益は小刻みだが、そのあとで、すぐ次の仕事の機会を考えている。その代わり退却もまた早すぎるほどで、することなすこと非常にテンポが速かった。
三井物産に当時常務はたくさんいたが、山本さんほど判断力が正確で才覚のあった人はいなかっただろう。満鉄に行った時でも万事この筆法で当たった。だから満鉄在任期間はたった1年半だが、後藤新平さんに次ぐ立派な功績を満鉄総裁として残している。
「若い時分には、人より半時間早く出社し、人より半時間遅く退社せよ。金の使い方に注意し”死に金“を使わず”生き金“を使え。ことに同じ使う金なら時を見て大事な時に先手を打って使え。また、ことを決める場合は相手方の立場になって考えろ」。
山本さんは身をもってそう教えてくれた。何といっても、僕の事業勘、人生観に一番大きな影響を与えた人は山本さんであった。