掲載時肩書 | 大丸会長 |
---|---|
掲載期間 | 1966/06/01〜1966/06/30 |
出身地 | 山形県米沢 |
生年月日 | 1889/05/28 |
掲載回数 | 30 回 |
執筆時年齢 | 77 歳 |
最終学歴 | 東京大学 |
学歴その他 | 一高 |
入社 | 住友総本店 |
配偶者 | 丸山-> 北沢養子(学生結婚) |
主な仕事 | 米国留学、住友電線->住友電工、住友倉庫、住友生命、本社常務理事、大丸、大阪文楽協会 |
恩師・恩人 | 山本為三郎,里見純吉 |
人脈 | 南原繁・森戸辰男(同僚)近衛文麿(2年下)三村起一(住友同期)南雲忠一大将(同郷)鷹司平通氏、古田俊之助、山口誓子 |
備考 | 父・教育者、健康法:裸体操推奨 |
1889年5月28日 – 1970年10月25日)山形県生まれ。昭和期の実業家。アメリカ・プリンストン大学への留学を経て、住友電線支配人、住友倉庫専務、住友生命保険専務を歴任。1931年に住友本社常務理事となる。戦後、大丸の顧問となり、副社長を経て、1950年に当時・第2代大丸社長の里見純吉の要請で第3代社長に就任。1954年に東京駅の八重洲に東京店を出店し、京阪神三店舗の増築、香港、タイなどの海外出店するなど売上高世界一のデパートへ成長させた。1963年に会長に就任する。関西経済連合会設立に尽力したほか、毎日放送、新大阪ホテル(現・リーガロイヤルホテル)などの取締役、関西学院・大阪女子学園各理事、懐徳堂記念会理事長、大阪日米協会会長をそれぞれ務めた。
1.鈴木馬左也総理事の訓え
大正8年(1919)春、鈴木総理事は第一次大戦後の欧米を視察して住友の事業発展の参考にしようと、一行5人を連れてニューヨークへ来られた。同行していた通訳は英語には堪能であるが、外人に対して遠慮し、鈴木総理事の話をそのまま先方に伝えないことが多かったため、私は通訳兼秘書として随行の一員に加えられた。米国の南部から中部、西部、北部と一周して随所を視察し、見聞を広め得たが随行中、鈴木総理事から教えられたことも多々あった。
なかでもシカゴのホテルでの教訓は今も肝に銘じている。昼ごろ、鈴木総理事は「北沢君、グリルはどこか」と聞かれた。私は「地下にあります」と答えた。また少したって「ダイニングルームはどこか」と訊ねられたので「グリルは下ですよ」と答えた。ところが夕食が終わってから、私は鈴木総理事の部屋に呼ばれた。
「禅の頌(じゅ)に“明暗双双底”ということがある。明は主観、暗は客観、すなわち主観と客観が互いに自由自在に動き変わり、少しも凝滞しないことを言ったものだ。きょう、わしが二度目にダイニングルームの所在を聞いたのに、君は「グリルは下ですよ」と同じ返事を繰り返した。質問が変わっていたにもかかわらず同じ返事をしたのは、自己にとらわれて動きの取れない証拠である。すなわち主観にとらわれて客観に転ずることができなかったのだと懇々と諭された。この教訓は身に沁み、今もって「明暗双双底」を復唱している。
2.葬儀委員長の経験が豊富となる
昭和15年(1940)11月24日夜、西園寺公望公が静岡県興津「坐漁荘」で亡くなられた。その翌日朝7時ごろ、住友本社の庶務課長から電話があり、本社の意向として「西園寺家にすぐお手伝いに行ってもらいたい」と伝えてきた。そのとき、私は折あしく風邪で38℃近い熱があり、どうしようかと考えた。しかし、ときの総理近衛文麿公と西園寺公の秘書原田熊雄君とが、ともに私と親密な関係にあるところから、私は病気をおして引き受けることにした。その日のうちに興津に着き、ご遺体を拝した。そして西園寺家から東京までの用事を承り、翌朝早く東京の総理官邸へ出向いた。
西園寺公の葬儀は、日比谷公園で国葬が執り行われることに決定され、国葬の葬儀委員長は近衛総理、西園寺家の委員長は私が勤めることになった。私はこの役で一週間忙しくて、ほとんど寝る暇はなかった。なお、私は西園寺公の葬儀の他、これまで住友総理事の鈴木馬左也さん、中田錦吉さん、住友分家の住友忠輝さん、それに住友先代さんまで、多くの葬儀を中心になって営んだ経験を持っている。
3.大丸の東京進出
昭和25年(1950)4月に大丸の社長となった。社長になるまでの3年余、私なりに大丸の業績を分析していた。関西企業を大きく発展させるためには、東京以外にはない。私は密かに東京進出を狙っていた。昭和26年、あれこれ研究しているさ中、たまたま東京駅八重洲口に民衆駅を作る計画があるのを知った。
私はためらわず当時の長崎国鉄総裁に民衆駅を大丸に貸し下げを願い出た。長崎さんと私とは、西園寺公の葬儀のとき、公のご遺体を興津から東京へ移送することなどで交渉が多く、旧知の間柄であった。民衆駅の貸下げは国鉄関与の鉄道会館が主管した。大丸を民衆駅の大手借主にすれば、入居保証金は間違いなく入り、建設資金問題も解決するということで、大丸への貸し下げが許可された。大丸が民衆駅に借りた面積は約2万8千㎡、入居保証金は9億3千万円、敷金5千万円、計9億8千万円で、当時としては妥当なところであったが、建設費の大部分は大丸が出したことになる。
開店は29年(1954)10月21日、開店の催しものとしては実用品の廉売を行った。開店は人気を呼び、最初の日曜日には40万人の入店客を数えた。店前は長蛇の列、混乱緩和のため、何度もシャッターを下ろして整理しなければならないほどであった。開店早々から東京店の収益が大丸4店のトップに立ち、全体業績を左右するまでになった。