掲載時肩書 | 草月会会長 |
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掲載期間 | 1965/06/20〜1965/07/09 |
出身地 | 大阪府 |
生年月日 | 1900/12/17 |
掲載回数 | 20 回 |
執筆時年齢 | 65 歳 |
最終学歴 | 小学校 |
学歴その他 | 中学から家庭教師 |
入社 | 生花師範 |
配偶者 | 弟子娘 |
主な仕事 | 生花(池の坊、未生、遠州)の総合 (父)→現代風、ラジオ生花、駐在外国夫人に活花、欧米指導 |
恩師・恩人 | 大沢豊子 女史 |
人脈 | 千疋屋・斎藤義一、松内則三(アナ)、犬丸徹三、草月流→海外進出(マッカーサー夫人)、丹下健三 |
備考 | 造形美術(花、彫刻、書) |
1900年12月17日 – 1979年9月5日)は大阪生まれ。日本の芸術家。いけばな草月流の創始者。1927年草月流を創流。勅使河原霞、勅使河原宏の父。現在の家元勅使河原茜の祖父。「草月」は、勅使河原家の家紋「根笹に三日月」に由来する。いけばなにおいて斬新な手法を多く提供し「花のピカソ」と呼ばれた。既存の華道の世界において重要な型を否定、自由ないけばなを提唱したため異端視された。しかし1957年、フランスから来日した前衛芸術の評論家ミシェル・タピエが蒼風の作品を絶賛し世界に紹介したことにより国際的な評価が高まるとともに日本でも認知されるようになる。『いけばなは生きている彫刻である』と提言する蒼風は、日本のいけばなを世界に発信した第一人者といえる。
1.父と決別(結婚後2年、26歳のとき)
父の流派は池の坊、未生、遠州などの古来のいけばなを総合したもので、当時としてはかなり革新的なものであった。父は伝統的ないけばなを、科学的に分析して教えようとしていた。枝の切り方などに新味を持たせたり、傾斜の角度を測って何度ぐらいと示していたりしてした。
父は教え方はいくら新しくてもいいが、日本古来のスタイルを崩してはいけないという。が、私はそうではない。いけばなそのものの形がよくない。江戸末期の風俗、気質に似合いのスタイルでこしらえたものを、現在の世の中であくまでもそれで縛るような教え方をしてはいけない。つまりいけばなは人と花の創作活動で花を通したその人の精神の表現でなければいけない、と主張して譲らなかった。こうして私の教え方、また花の生け方をめぐって父との意見の衝突が激しくなり、とうとう決裂してしまった。
2.私のいけばなの考え方
いけばなの神髄に、千利休の「花は野にあるように」というのがある。これを「利休は、花をいけるならば野にあるようにそのまま活ける。すなわち鋏を入れたり枝ぶりを曲げたり葉の数を減らしたりしない。そのままにしておくのである」と学識者も解釈していた。一般の人も大いにその通りと思い、賛意を表すだろう。
しかし、「野にあるように」そのまま活けるは、私に言わせれば決して「野にあるように」ではないのである。外に咲いている花を切り取ってそのままそっとさしおいて、果たして外にあった時と同じ美しさが再現されるだろうか。否である。もしそう思う人がいたら、その人は外にある花の美しさを非常にずさんに見ているのである。
これは利休が作った花いけを見ると納得できる。利休は小さな形の花器ごとに花を挿す口の小さいものを多く作っている。ということは、彼は花を局部的に取り扱ったということである。つまり彼は、わずかな花によって大自然を描写したのであって、深く深く自然の持つ神秘を洞察した偉大な天才だった。
3.外国婦人との「生け花」観の違い
昭和20年(1945)の秋、東京に進駐した米軍将兵の夫人たちが、いけばなを習いたいと言い出したため、マッカーサー元帥夫人をはじめとする高官夫人たちにアーニー・パイル劇場(現東京宝塚劇場)で教えることになった。
外国にも花を愛し、花束を持っていく習慣があり生活の中にちゃんと位置を占めている。花束の花の単位は最低1ダースで、普通は2,3ダースを贈る。もらった方では、これをパっとツボなどにさして楽しむ。
ところが日本のいけばなは1本からスタートする。花屋でも1本ずつ売る。そして1本投げ入れていい姿勢ならそれでやめ、足らなければ2本、3本と増やしていく。つまり1本で自己の精神を表現しようとする。
もう一つ、外国人が日本のいけばなを非常に珍しがってやる気になった原因に、木を生けることである。いけばなは草花だけではない。必ず木の枝を組み合わせる。ところがフラワー・デコレーションは絶対草花だけだ。枝ぶりの見事さとか枯れ枝の面白さなどは考えてもみなかったことなのである。これが大いに彼らの興味をそそったらしい。