加藤誠之 かとう せいし

輸送用機器・手段

掲載時肩書トヨタ自動車販売会長
掲載期間1980/07/01〜1980/07/30
出身地三重県宇治山田
生年月日1907/11/25
掲載回数30 回
執筆時年齢73 歳
最終学歴
関西学院大学
学歴その他関学高商
入社日本GM本社
配偶者村長の娘
主な仕事トヨタ再就職、広報担当,平塚工場、USA輸出、海外マーケティング、海外展開、中国進出
恩師・恩人JJ・ミックル 教授、神谷正太郎
人脈豊田利三郎、豊田喜一郎、沢田美喜、山本定蔵、牧野米国社長
備考賀川豊彦信奉、信条:「エターナルベイビー」「ノーブル・スタッボーネス」
論評

1907年11月25日-1995年12月13日)は三重県生まれ。実業家。トヨタ自動車販売取締役社長、取締役会長、トヨタ自動車相談役、顧問、名古屋商工会議所副会頭、学校法人関西学院理事長などを歴任。日本デザインセンター創設メンバーのひとり。1989年の世界デザイン博覧会では博覧会協会理事長を務め、トヨタグループの会議の際に自ら入場券を売り歩くなどし、博覧会の成功に寄与した。息子はレーシングカーデザイナーの加藤眞。

1.国産豊田号、座禅を組む
トヨタの第一号販売店は、GMから転向した名古屋の「日の出モータース」(愛知トヨタ自動車の前身)である。販売特約契約を結んだ直後の昭和10年12月8日、ここで発表会を行った。11月に開いた東京での披露会は、あくまで披露会だったが、今回は販売店における発表会、つまり発売だ。この発表会に顔を出した豊田財閥の総帥、豊田利三郎氏(豊田佐吉氏の娘婿)が、支配人をつかまえて「どうだい、ウチの車は回るかい」と聞いたという伝説が残っているが、そのエピソードにたがわず、国産トヨダ号は虚弱だった。
 売り出しては見たものの、昨日はあそこで、今日はここで、「動かなくなった」とクレームが続出した。特に全浮動方式を採用した後車軸が悪く、過積載すると直ぐにポキリと折れてしまう有様。お客様に大変なご迷惑をかける結果となった。業界紙の中には「国産豊田号、座禅を組む」などと書き立てる。これには参ったが、とにかく折角、国産車を買ってくださったお客様の期待に応えなくてはならぬ。徹底したアフターサービスを行うことになった。

2.豊田喜一郎氏の夢は多く
喜一郎氏は、戦争が終わったから自動車統制会はもう無用だと言って、これを自動車協議会に編成変えしようと考えて奔走された。木炭車で挙母と東京を何回も往復される。私は秘書の如く、いつも同行した。進駐軍が占拠している東京での通訳の役を期待されたこともあったと思う。
 伊豆の別荘へ向かう途中、喜一郎氏は将来、伊豆半島を開発して観光事業をやってみたいと大きな夢を語られた。別荘では、たわわに実ったミカンをもぎとって腹一杯たべた。その味が今でも忘れられない。そしてこれからは食糧を確保しなければならない時代だと言われ、実家に近い浜名湖で鰻とボラの要職を手掛けられていた。自動車協議会の設立総会が東京の岸本ビルで開かれることが決まった時、喜一郎氏はその出席者に鰻をご馳走して上げようと言い出された。そして、ザル一杯の鰻と料理人を同行して設立総会に出席された。
 その日、岸本ビルは時ならぬカバ焼の香りが充満した。出席者みな、大満足であった。喜一郎氏は協議会の初代会長に就任されたが、勿論カバ焼をご馳走したからというわけではない。

3.全米で輸入車トップに
昭和50年(1975)12月3日の臨時取締役会で私の社長就任が決まった。副社長時代は専ら海外マーケティングに全力を投入していたため、国内販売店とはややともすると疎遠になりがちであった。そこで、北から南まで全販売店を訪問し、膝を突き合わせて親しく意見の交換を行った。確かに副社長と社長では精神衛生の面で随分違うものだ。自分では相当に図太い方だと思っていたが、やはり例外ではなかった。
 51年の初め、それもまだ松の内のことである。私は万感の思いを込めて、米国トヨタの牧野社長宛に“祝テレックス”を打ち込んだ。前年の米国乗用車市場において、トヨタがVW(フォルクス・ワーゲン)を抜いて初めてトップセラーの座についたのである。アメリカ進出以来、実に19年目の快挙であった。昭和32年にサンプルを持込み、米国進出の先導役を仰せつかった私としては、その後の道程が起伏に富み、苦渋に満ちていただけに、感慨もひとしおであった。

加藤 誠之(かとう せいし[1]1907年11月25日 - 1995年12月13日)は、日本実業家トヨタ自動車販売取締役社長、取締役会長、トヨタ自動車相談役[1]、顧問、名古屋商工会議所副会頭[1]学校法人関西学院理事長、世界デザイン博覧会協会協会理事長などを歴任。日本デザインセンター創設メンバーのひとり。息子(次男)はレーシングカーデザイナー加藤眞

  1. ^ a b c 「デザイン博成功で光 時流の先へ 中部財界ものがたり 第17部 変わる名古屋財界<4>」中日新聞2014年8月15日付朝刊、地域経済面13ページ
[ 前のページに戻る ]