食品
| 掲載時肩書 | サントリー会長 |
|---|---|
| 掲載期間 | 1993/04/01〜1993/04/30 |
| 出身地 | 大阪府 |
| 生年月日 | 1919/11/01 |
| 掲載回数 | 29 回 |
| 執筆時年齢 | 74 歳 |
| 最終学歴 | 大阪大学 |
| 学歴その他 | 浪速高 |
| 入社 | 壽屋 |
| 配偶者 | 鳥井 >佐治(妻:津田塾) |
| 主な仕事 | 短現・技術仕官、広告宣伝活用、オールド、リザーブ、ビール、ワイン、医薬品、音楽ホール等文化活動 |
| 恩師・恩人 | 佐谷正先生、小竹無二雄、山本為三郎 |
| 人脈 | 長兄妻の父(小林一三)、七川歓次、野口照久、森下泰、宣伝部(山崎隆夫、柳原良平、開高健、山口瞳)、川上善兵衛、佐野正一、佐伯勇 |
| 備考 | 信条:やってみなはれ、父:ウィスキー創製、鳥井信一郎(長兄の長男) |
1919年11月1日 – 1999年11月3日)は大阪生まれ。実業家。サントリー第2代社長、元会長。基礎科学研究を熱心にサポートした実業家としても知られる。1991年 サントリー生物有機科学研究所所長に就任。ACジャパン(旧:公共広告機構)の発起人として知られる。文化事業にも多く取り組んでいた。佐治は工学者・平賀譲の三女と結婚したが、長男の信忠を出産直後に妻が21歳で早世。その後元住友銀行頭取・大平賢作の娘と再婚。先妻との間に生まれた信忠はサントリー代表取締役社長を経て、現在は会長を務める(サントリーは現在でも非上場企業であり、同族経営である)。また後妻との間に生まれた娘の春恵はチェリストの堤剛の妻で、戯曲「仮名手本ハムレット」で第44回読売文学賞を受賞している。
1.米軍将校への売り込みと接待
昭和20年〈1945〉10月、私は寿屋に入社した。占領軍が和歌山に上陸して、完全武装の姿で大阪に入ってきたのは、9月27日のことであった。その司令部が新大阪ホテルに置かれた。父は日ならずして単身でウィスキーを1本ぶら下げ司令官に面会を求め「これがわてのウィスキーだす。ひとつ飲んでみとくんなはれ。よかったら軍のためにこれからも造らしてもらいまっさかい、買うてもらえまへんやろか」。「オーイエス。ベリーグッドウィスキー。オーケー、オーケー」。これは私の司令官との架空会見記である。ともかくにも父は米軍相手の正常な商取引によるウィスキーの売り込みに成功したのである。
当時はその商売のお得意様、米軍将校を相手の接待が、雲雀丘の自宅で毎夜の如く開かれていた。大阪での下士官連中のお相手は私の役目。英語に強いわけではない私にとっては地獄の責め苦、疲れ果てての帰路、電車の吊り革につかまっていると、向こう3人両隣の日本人の会話がことごとく英語に聞こえてくる。良くしたのもので、そのうち相手の英語が一語一語はなれて聞こえてくるようになり、何とはなしに要領を得られるようになった。以来語学に対するある種の自信を植え付けられたように思われる。
2.宣伝部の黄金時代
トリスウィスキー最初の本格的な広告は、昭和26年(1951)の正月の新聞紙上を飾った。この宣伝部長に山崎隆夫を迎えた寿屋は猛然と宣伝活動を開始した。各方面から人材が集まってきた。三和銀行で宣伝をやっていた柳原良平が山崎さんを慕ってやってきた。そして坂根進は新聞広告で応募、それに開高健が加わった。戦後の黄金時代、トリス広告文化時代を現出した主役が顔を揃えた。
昭和29年〈1954〉、当時の宣伝部は、まさに梁山泊の如く、親分の山崎を中心にいずれ劣らぬ豪傑が縦横無尽の大活躍、いろいろな分野でユニークな活動を繰り広げていた。新聞広告では、コピー開高、アートディレクト坂根、イラスト柳原が定番になっていたが、「人間らしくやりたいな」というトリスの宣伝コピーは、時代を超えた名作であったと思う。これに酒井睦雄、山口瞳が加わったチームによるテレビのアンクルトリスシリーズ。山口の「トリスを飲んでHawaiiへ行こう!」もまた、今や古典と言える。また、洋酒天国という洛陽の紙価を高からしめた小冊子は開高健の発案によるもので、トリスバーが全国に群生する力となった。
3.ビール事業進出に山本為三郎氏の助力
昭和38年〈1963〉3月、ビール発売を記念して、社名を「寿屋」から「サントリー」に変更した。ビール業に参入には大きな障壁があった。いろいろ考え困った末、ビール界の大御所・山本為三郎氏に相談することにした。その山本さんが実は父信治郎とは竹馬の友、父の方がやや年嵩ではあったが、同じ大阪の船場の育ちで、同じ食品業界に身を置き、若いころからの親しい仲であった。そうしたご縁を頼りにして、ビール界参入のお助けをお願いしたわけである。
お目にかかって僅か2回目のときに思いもかけず、山本さんは「よし、わかった。それではうちの会社でサントリーを助けてやろう」という大英断を下された。勿論それには条件があった。ビール界大手3社のカルテルを避けるため、新参者サントリービールは、いわばサントリーに造らせている朝日麦酒の一つのブランドという扱いをしようということである。それによって卸屋さんとの間の専売契約はクリアーできる。その代わりに経営についての大きな問題、工場の増設、新設などは朝日の承認を受けること、また値段その他の販売条件は、勿論朝日と同一でないといかん、等々なかなかに厳しいものがあった。
条件の厳しさはあっても、とにかく朝日の卸ルートをサントリーに開放していただくということは、当時としては何ものにも代えがたい恩恵であった。
4.サントリーホールの功績
創業70周年記念に当たる昭和44年(1969)、財団法人鳥井音楽財団(現サントリー音楽財団)を設立した。この財団を通じて多くの音楽関係者と相識るようになったことが、後年のサントリーホールの誕生に繋がっていった。あるとき故芥川也寸志さん(財団の実質的な指導者、氏の没後その名を冠した作曲賞が設けられている)からこんな話があった。「サントリー音楽賞はユニークな賞としての評価を高めていて、音楽家の一人として感謝にたえないが、今東京で求められているのは本格的なコンサート専用のホールです。唯一上野の文化会館がありますが、これとてもコンサート専用ではありませんし、多くの不満があるのです。ひとつサントリーでホールを造りませんか」。この案にゴーサインを出したのが、昭和57年〈1982〉だった。
このホールの完成によって、サントリーは大阪銘柄から東京を含む全国銘柄に格上げされたのではないか。今日、このホールでは1年に365回以上の公演が行われ、オープン以来すでに400万人を超える聴衆を集めている。ここで演奏した音楽家は数えきれないが、なかでも忘れることのできないのは、マヱストロ カラヤンである。ホールの生みの親ともいうべき恩人であるが、昭和63年〈1988〉、ベルリンフィルを率いての演奏が氏の日本における最後の舞台となった。
サントリーホールの功績は、音楽人口の幅を拡げたことにあると言っても良いのではないか。若い人々に占領されていたコンサートの席に熟年のカップルが侵入してきた。奥様に誘われて旦那が顔を出す。昔とった杵柄か、違和感のないカップルが多くてうれしい。
さじ けいぞう 佐治 敬三 | |
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| 光琳『食品工業』第10巻第10号(1967)より | |
| 生誕 | 1919年11月1日 大阪府大阪市東区住吉町(現:中央区松屋町住吉) |
| 死没 | 1999年11月3日(80歳没) 大阪府吹田市 |
| 国籍 | |
| 職業 | 実業家 |
| 著名な実績 | サントリー社長、会長 ACジャパン創設者 |
佐治 敬三(さじ けいぞう、1919年 <大正8年> 11月1日[1] - 1999年 <平成11年> 11月3日)は、日本の実業家。サントリー第2代社長、元会長。基礎科学研究を熱心にサポートした実業家としても知られる。位階は正三位。
- ^ “生活文化企業の大成者 佐治敬三(1919 - 1999)”. 神奈川県立図書館. 2023年7月11日閲覧。