伊藤次郎左衛門 いとう じろうざえもん

商業

掲載時肩書松坂屋社長
掲載期間1958/03/02〜1958/03/15
出身地愛知県名古屋
生年月日1902/07/05
掲載回数14 回
執筆時年齢56 歳
最終学歴
慶應大学
学歴その他愛知一中
入社松坂屋(自)
配偶者佐竹侯爵妹
主な仕事ビルマ人留学、9か月新婚外遊、伊藤銀行>東海、日本貯蓄>協和
恩師・恩人青木鎌太郎
人脈オッタマ(ビルマ僧侶)、飯田蝶子、近衛文麿、藤山愛一郎、大田正孝、観世喜之、御木本幸吉、松方幸次郎、大谷光瑞、佐々木晩穂
備考16代目、趣味・謡曲
論評

(明治35年(1902)7月5日―昭和59年(1984)死去)は愛知県生まれ。実業家。第16代次郎左衛門。中京圏の経済・文化発展に貢献した。伊藤次郎左衛門家は松坂屋(名古屋店の商号は「伊藤屋」(1611年)」→「いとう」(1834年)→「いとう呉服店」(1900年)→「松坂屋」(1925年)と変更)の創業家で代々の当主が「次郎左衛門」の名前を継いでいる。

1.伊藤家の風習
明治43年(1910)、名古屋の栄町に松坂屋百貨店ができた。木造3階建て、500坪ほどのものであった。前年父は約3か月外遊して、米国には女店員がいると言って、”別家“の娘とか未亡人などを狩りだして売り場に置いた。これが我が国における女店員のハシリである。
 この”別家“という制度は伊藤家独特のものである。伊藤家には”別家“が10軒あって、それぞれ恒産を持ち、伊藤家の最高首脳者であった。そして別家のうちの長男は絶対に私の所では使わず、外に出てしまう。その代わり別家のうちの長女に、伊藤家の番頭の中の秀才を養子にやる。この養子に娘ができると、また伊藤家の優秀な番頭を養子に迎えるという制度である。

2.頭山満氏の紹介でビルマ人との縁
明治43年に松坂屋が開店したとき、店内を異様な姿で歩いているビルマの僧侶があった。それを父が見て応接室に招じ入れ話を聞いてみると、その僧侶はオッタマと言い、ビルマの独立の志士として、ビルマでは非常な尊敬を受けている人で、頭山満さんを頼って日本亡命してきた人であることが分かった。そして頭山さんの紹介状をもってうちの店を訪ねてきたわけである。父と非常に意気投合して、父はビルマの学生を預かろうと、そのとき口約束を交わしたものらしい。
 すると大正2年(1913)神戸の大阪商船から電話があり「いまビルマの学生6人が伊藤さんを訪ねるために船に乗っている。もし預かってくれなければこのまま米国に留学させてしまうが・・」ということだった。父も約束した手前、預からないわけにいかず、6人全部を私の家に入れることになった。そして半年ほど私たちと一緒に生活することになり、私もその人たちと遊んだものである。ビルマの留学生たちは日本に6,7年いたろうか。そんなわけで父はビルマと関係ができ、そこから得た情報を海軍に流したりしたものである。

3.名古屋人気質
(1)花柳界女性:昭和12(1937)ごろまで、花柳界では名古屋が一番美人が多いと言われていた。いわゆる中央美人である。大阪でも東京でもなるほど、何人かは飛びぬけて美しいのがいる。しかし、その他大勢はグッと落ちるのが普通である。それに比べて名古屋は並んだ妓は皆きれいで甲乙をつけにくいほどであった。しかし現在ではそれもすっかり変わってしまった。
(2)旦那衆:これはまたお金を使わないことで知られていた。これも現在では違ってきたかもしれないが、戦争前まではそうだった。なぜかというと、大体名古屋は何代続いたという旧家が多い。それで自分一人でお金を儲けたわけではないから自分では自由に使えない。どこかで財布を握っている奴がいるわけである。それで自然、地味にならざるを得なくなるし、東京でいえばケチくさいという気風になってくる。
(3)貯蓄熱心:愛知県は全国で貯蓄が首位であるのは名古屋の気風といえる。だから少しぐらいのパニックが来たり、経済的な変動があってもあまり倒産者は出ない。それは一方から言えば危険に手を出さないからでもあり、ある意味では退嬰(たいえい)的ともいえよう。それで貿易商とか船会社などのようにリスクを伴う事業は発達しない。こういう事情をよく知らない人たちから、名古屋は封建的だと言われてきたのだが、今日ではどこでもそうであるように、そういう伝統、風習もやや薄らいできたようである。

伊藤 次郎左衛門(いとう じろうざえもん)は名古屋の伊藤家(松坂屋〈現:大丸松坂屋百貨店〉創業家)当主の名跡

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