掲載時肩書 | 岐阜大学学長 |
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掲載期間 | 1973/01/01〜1973/01/31 |
出身地 | 京都府 |
生年月日 | 1902/01/06 |
掲載回数 | 31 回 |
執筆時年齢 | 71 歳 |
最終学歴 | 京都大学 |
学歴その他 | 三高 |
入社 | 大津臨湖 実験所 |
配偶者 | 妹の友人 |
主な仕事 | 昆虫採集、山登り、カゲロウ、馬、 ニホンザル、ゴリラ、ヒマラヤ、蒙古、サル(250種) |
恩師・恩人 | |
人脈 | 西堀栄三郎(妹婿)、桑原武夫、貝塚茂樹、梅棹忠夫、伊谷純一郎、土川元夫、宮地伝三郎 |
備考 | 西陣織屋 |
1902年1月6日- 1992年6月15日は京都府生まれ。日本の生態学者、文化人類学者、登山家。
今西の活動は登山家、探検隊としてのものと、生態学者としてのものがあり、彼の中では両者が不可分に結びついている。探検家としては国内で多くの初登頂をなし、京都大学白頭山遠征隊の隊長などを務めた。生態学者としては初期のものとしては日本アルプスにおける森林帯の垂直分布、渓流の水生昆虫の生態の研究が有名である。後者は住み分け理論の直接の基礎となった。第二次大戦後は、京都大学理学部と人文科学研究所でニホンザル、チンパンジーなどの研究を進め、日本の霊長類学の礎を築いた。
1.酒飲みの習性
酒を飲み始めたのも三高時代だった。入学してすぐの5月1日、記念祭の晩、みんなが飲んでいるものだから、私も飲んだら量が過ぎて裏庭でひっくり返ってしまった。晩酌は大学に入ってから始めて、現在まで続いている。
結局相当の量を飲んだことになるが、翌日山へ行っても足が軽かった。気持ちの良く飲んだ酒は翌日に残らないのである。私の酒好きは有名で、上高地の山案内人の間では「三升さん」と呼ばれていたが、三升はちょっと飲めるものではない。いいところ、1升を二人で飲む程度だろう。同期の西堀栄三郎(妹婿)君はあまり飲まない。もっぱら介抱役であり、彼がいるかぎり私も安心して飲んだものである。
2.山登りと学問の共通点(引返す勇気が必要)
山登りは、炭焼き、木こりの通る道を利用できるだけ利用し、最後は道なき道をかき分けて登らなければならない。しかし、登っていくうちに方角が間違ったと思ったら直ちに引き返さなくてはいけない。引き返すのは格好が悪いかもしれない。後退ということは言うは易いが、なかなか出来にくいことだ。
学問の世界で未知の領域を開拓するときも同じである。この道で行こうと仮説を立てて走り出したからには行けるところまで行かねばならない。しかし、行き詰まったと思った時はその道を捨てて、新しい道に移らねばならない。学者によっては前説を覆すことが沽券にかかわるといったような考えにとらわれている人もいるが、私は説替えをじゃんじゃんやるので、みんなあきれているらしい。しかし、進歩は新しさにこそあるのだ。そこが学問のおもしろさだ。
3.トナカイと馬の違い
トナカイは面白い動物で、日本の鹿のように雄だけにツノがあるのではなくて、雄も雌も両方ともツノを持つ。
馬もトナカイも昼は荷物を運ばせるが、夜は放牧しておくのである。朝になると放しておいた馬やトナカイを探しに出かけるがなかなか見つからないときが多かった。漠河隊と合流後しばらくはトナカイ、馬の両方を連れて歩いたが、馬のためには草の多いところに泊まらないとダメだし、トナカイの方は馬の食べる草には見向きもしないで、もっぱら岩に着いた苔を食うものだから、どちらにも適した泊り場所を探し出すのに苦労した。
またトナカイが谷地坊主の上をすべるがごとく通り抜けるのには感心した。人間なら自分の踏むところを見届けたうえで足を進めることができるが、四つ足の動物にどうして後ろ足の踏むところが分かるのだろうか。馬はそれができないので、谷地坊主の上を歩かせようとしてもすぐ水の中にはまってしまうのである。
馬は乾燥地帯の動物であっても、湿地帯の動物ではない。
1956年 | |
人物情報 | |
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全名 | 今西 錦司 (いまにし きんじ) |
生誕 | 1902年1月6日 日本 京都府 |
死没 | 1992年6月15日(90歳没) |
出身校 | 京都帝国大学農学部卒業 |
学問 | |
時代 | 昭和戦前期 - 平成初期 |
学派 | 今西グループ |
研究分野 | 生態学 文化人類学 |
研究機関 | 京都大学 日本モンキーセンター 岡山大学 岐阜大学 |
主な指導学生 | 伊谷純一郎 河合雅雄 |
学位 | 理学博士(京都帝国大学、1939年) |
称号 | 従三位 勲一等瑞宝章 文化勲章 文化功労者 |
主な業績 | 棲み分け理論の提唱 |
影響を受けた人物 | 可児藤吉(共同研究者) |
影響を与えた人物 | 西田利貞 |
主な受賞歴 | 朝日賞 |
今西 錦司(いまにし きんじ、1902年(明治35年)1月6日[1] - 1992年(平成4年)6月15日[1])は、日本の生態学者、文化人類学者、登山家。京都大学名誉教授、岐阜大学名誉教授。位階は従三位。日本の霊長類研究の創始者として知られる。理学博士(京都帝国大学・1939年)。京都府出身[1]。
今西の活動は登山家、探検隊としてのものと、生態学者としてのものがあり、彼の中では両者が不可分に結びついている[2]。探検家としては国内で多くの初登頂をなし、京都大学白頭山遠征隊の隊長などを務めた。生態学者としては初期のものとしては日本アルプスにおける森林帯の垂直分布、渓流の水生昆虫の生態の研究が有名である。後者は住み分け理論の直接の基礎となった。第二次大戦後は、京都大学理学部と人文科学研究所でニホンザル、チンパンジーなどの研究を進め、日本の霊長類学の礎を築いた。墓所は上品蓮台寺。