掲載時肩書 | 映画監督 |
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掲載期間 | 2003/12/01〜2003/12/31 |
出身地 | 東京都 |
生年月日 | 1926/09/15 |
掲載回数 | 30 回 |
執筆時年齢 | 77 歳 |
最終学歴 | 早稲田大学 |
学歴その他 | 東京高 等師範 |
入社 | 松竹 |
配偶者 | 社内事務娘 |
主な仕事 | 日活、重喜劇、「豚と軍艦」「にあんちゃん」「日本昆虫記」「赤い殺意」「神々の深き欲望」、日本映画学校 |
恩師・恩人 | 小津安二郎 、川島雄三 |
人脈 | 北村和夫(小友)、星新一(級友)、小沢 昭一、加藤武、浦山桐郎、長門裕之、山内久(脚本)、姫田真佐久(カメラ) |
備考 | 大食(すし100ケ、ソバ10皿)、父:医者、 |
1926年〈大正15年〉9月15日 – 2006年〈平成18年〉5月30日)は東京生まれ。映画監督、脚本家、映画プロデューサー、日本映画学校(現・日本映画大学)の創設者。カンヌ国際映画祭で2度のグランプリを受賞した日本を代表する映画監督の一人。松竹、日活を経て、独立プロダクションの株式会社今村プロダクションの代表取締役を務めた。映画人を育成する横浜映画専門学院を創立、後に日本映画学校となり、日本映画大学の母体となった。撮影所システムが1970年代に崩壊して、映画会社が人材育成をやめて以降の人材供給の役割を果たしていくことになった。
1.映画作りの面白さと影
映画作りとはまことに割の悪い仕事である。友人知人を拝み倒し、スポンサーを説き伏せ、家を抵当に入れてやっと金を集め、撮影に入ったかと思うと天候にたたられる、望み通りのショットが撮れないと、夜も眠れない日が続く。苦心して汗水流せば成果が出るという代物でもない。いまだに千万以上の借金が残る。
だから一体、何が面白くて映画を撮るのかと問われると困るが、強いて言えば、人間の面白さということになる。人間というわけのわからない魅力的な動物を見つめ、分析し、構築する仕事は、作り手の「全人間」を賭けるものであるがゆえに、無限の面白さを持つからだ。
2.シナリオと現実
映画の出来はシナリオ六分、配役三分、演出一分で決まる。だからシナリオ執筆には何年も費やし、稿を重ねて徹底的に苦しむ。シナリオは天候や役者の制約に煩わされず、ベストの条件を想定できるが、現実は甘くない。振り返ると机に向かって格闘した時期が一番楽しかったと思うこともある。
「楢山節考」では「冬眠するヘビを食うネズミ」を撮るため、ヘビを冷凍庫で冬眠させ、何日も餌をやらずにいたネズミを放って無理にかじらせた。すべて一発勝負。「ヨーイ、スタート」の掛け声、そして静寂。「OK」。一瞬ホッとした空気に包まれるが、誰もが分かっていた。満点ではなかったことを。
3.恩師・小津監督への感謝と不満
大船で小津組はエリートだったが、私は不満であった。小津さんの演出は役者に自由な演技の余地を与えない。シナリオに書かれたセリフを一言一句、監督が決めた動作をしながら口にするだけである。しかも何度もテストを繰り返す。その都度役者から人間らしい、生き生きとしたものが失われていく気がした。私は小津さんの影響を受けまいと心に決めて過ごし、監督になってから全く違う映画つくりをしてきた。
それでも振り返ると、多くを学んだと思う。キャメラ位置一つにしても自らの美意識に従って執念深く求め、よいと決まれば断固崩さない。監督はかくあるべしと、小津さんを思い出し肝に銘じてきた。
4.「鬼の今平」と「蛇の浦山」
私は人間を泥臭く描かなければ面白くないと思い、執拗に役者が倒れるまで演技を要求したので、「鬼の今平」とささやかれるようになった。「鬼の今平」と並んで「蛇の浦山」と恐れられたのが浦山桐郎である。後に「キューポラのある街」や「私が棄てた女」「夢千代日記」を監督して有名になる浦山は、私が川島雄三組のチーフ助監督を務めた間、セカンドの助監督であった。私の監督昇進とともにチーフに引っ張り一緒に仕事した。色白の優男で、私の初対面の時、役者になったらと勧めた。実は苦労人であった。高校時代に父親が自殺し、肉体労働などして大学を出た。酒が入ると苦い青春時代を思い出し、めそめそと泣く。だが、いざとなると蛇のようにしっこく食い下がり、相手を動かす。中学、高校とエース・スプリンターで鳴らした運動神経も抜群で、今村組の最優秀助監督でもあった。
いまむら しょうへい 今村 昌平 | |||||||||||||||||||
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キネマ旬報社『キネマ旬報』第359号(1963年)より | |||||||||||||||||||
別名義 | イマヘイ | ||||||||||||||||||
生年月日 | 1926年9月15日 | ||||||||||||||||||
没年月日 | 2006年5月30日(79歳没) | ||||||||||||||||||
出生地 | 日本・東京府東京市 | ||||||||||||||||||
職業 | 映画監督 脚本家 映画プロデューサー | ||||||||||||||||||
ジャンル | 映画(日本映画) | ||||||||||||||||||
活動期間 | 1951年 - 2002年 | ||||||||||||||||||
配偶者 | あり | ||||||||||||||||||
著名な家族 | 長男:天願大介 次男:今村竑介 | ||||||||||||||||||
主な作品 | |||||||||||||||||||
『にっぽん昆虫記』 『神々の深き欲望』 『復讐するは我にあり』 『ええじゃないか』 『楢山節考』(1983年) 『黒い雨』 『うなぎ』 『カンゾー先生』 | |||||||||||||||||||
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今村 昌平(いまむら しょうへい、1926年〈大正15年〉9月15日 - 2006年〈平成18年〉5月30日)は、日本の映画監督、脚本家、映画プロデューサー、日本映画学校(現:日本映画大学)の創設者。同姓同名の別人で映画関係者(小道具関連)がいる。日本映画監督協会会員。