掲載時肩書 | 新日鐵名誉会長 |
---|---|
掲載期間 | 2012/09/01〜2012/09/30 |
出身地 | 神奈川県 |
生年月日 | 1929/12/23 |
掲載回数 | 29 回 |
執筆時年齢 | 83 歳 |
最終学歴 | 東京大学 |
学歴その他 | 一高 |
入社 | 富士製鉄 |
配偶者 | 社内結婚 |
主な仕事 | 豪州鉱山開発、合併、大リストラ、社長、経団連会長、中国との連携、新生銀役員、国際親善、日本経団連(経団連+日経連) |
恩師・恩人 | 永野重雄、田部三郎、稲山嘉寛 |
人脈 | 佐波正一、八城正基、豊田達郎、津島雄二、成田豊、奥田碩、豊田章一郎、斎藤裕、石原俊、河合良一 |
備考 | 海兵78期(最後),官僚たちの夏(池田首相ー兄:善衛 VS 佐藤首相ー佐橋滋) |
1929年12月23日- )は神奈川県生まれ。実業家。新日本製鐵(現・日本製鉄)相談役名誉会長。日本経済団体連合会名誉会長で、第9代経済団体連合会会長。入社直後から常務取締役までほぼ一貫して原料購買など業務畑を歩み、その間、釜石製鐵所には二度勤務する。財務担当の常務時代に固定費削減を訴え、高炉13基のうち5基を休止するなど徹底的な合理化を推進。1993年の社長就任以降、財界活動で当時株主重視の論陣を張る宮内義彦(オリックス社長)らと対立し、雇用を重視しつつ「創業的大リストラ」として3000億円のコスト削減を打ち出し、アジア通貨危機など鉄鋼需要の激減時にも経常黒字を維持する強固な経営体質を築いた。現在は公益財団法人国際花と緑の博覧会記念協会会長。兄は今井善衛(元通商産業事務次官)、甥に同じく経産官僚で安倍晋三総理の内閣総理大臣補佐官、首相政務担当秘書官などを務めた今井尚哉がいる。次兄は今井謙治(第1護衛隊群司令、海将補)。姉は北京大学及び九州大学農学部教授を務めた大橋育英の夫人。
1.兄は「官僚たちの夏」のモデル
16歳上の長兄善衛は目が悪く、役人の道を選ぶ。旧制一高、東大を経て昭和12年(1937)に商工省(現経産省)に入り、昭和38年〈1963〉に事務次官となった。
ご存知の方もいると思うが、城山三郎さんの小説「官僚たちの夏」の玉木のモデルである。当時、貿易自由化の推進派だった池田勇人さんにかわいがられ、同期の佐橋滋さんは自由化慎重論の佐藤栄作さんと近かった。長兄には就職など何かと世話になった。
2.高炉と平炉の変遷
1952年、長兄は名刺に八幡製鉄の稲山嘉寛常務と富士製鉄の永野重雄社長に紹介文を書いてくれたが、永野社長に会い、翌年、富士製鉄の本社購買部原料課鉄屑掛に配属となった。
このころの製鉄法は製鋼の工程で平炉を使っていた。まず高炉で銑鉄を造り、これと鉄くずを平炉に入れて粗鋼を製造する。今の転炉では85%が銑鉄だが、平炉は銑鉄4に対し鉄くず6の割合。鉄くずが主原料だった。高炉メーカーは八幡、富士、日本鋼管の3社だけ。高炉3社が20社ぐらいある平炉メーカーに銑鉄を売っていた。一方、鉄くずは国内の発生がまだ少なく、輸入が多かった。主に東南アジアからで、インドシナ(当時)、マレーシア、香港などだ。私は富士でその担当をやった。
その後、電炉メーカーが高炉メーカーのシエアを奪っていった。電炉メーカーというのはスクラップを電気炉で溶かし、鉄を作る。平炉メーカーが転身した業態だ。粗鋼生産は1973年をピークに減少に転じ、高炉メーカーは銑鉄が余り、製鉄所内で発生する鉄くずを売る時代に入った。スクラップ価格は下がり、電炉メーカーは有利になった。
3.富士と八幡の大合併
富士製鉄の原料部鉱石課長として鉄鉱石の調達など忙しい毎日を送っていた1968年4月17日、新聞報道で八幡製鉄と合併する計画を知った。富士の永野社長と八幡の稲山社長は旧日本製鉄で一緒に営業をしていたし、私自身は原料の仕事をして鉄鋼業界の協調の重要性を分かっていたから、「ああ、そうか」と違和感はなかった。永野さん、稲山さんは私とは親子ほど年が離れているが、信頼関係があった。
永野さんと稲山さんの性格は反対で、何か意見の違いがあると稲山さんが譲ることが多かったのではないかと推測する。ライバルだったら、合併は実現しなかっただろう。合併については永野さんが構想を漏らし、稲山さんが「三味線を合わせた」と言われる。
1970年3月31日に発足した新日鉄は粗鋼生産世界一、売上高日本一のマンモス企業。社員は8万2千人おり、製鉄所も建設中の大分を含め9つとなった。
4.合理化はつらかった
1985年のプラザ合意による円高は日本の戦後鉄鋼史のなかで最大の危機となった。鉄鋼自体は原料を輸入しておるが、自動車、電気、造船といった需要家は輸出比率が高い。鉄鋼は減産、値下げ要求を受け、大規模なリストラが必要になった。86年度に日本全体の粗鋼生産は1億トンを割り込み、会社では合併後初めての赤字となる。
だが、斎藤英四郎さん、武田豊さんと歴代の新日鉄社長は固定費削減の発想があまりなかった。7割操業、6割操業でも利益が出る体制にこだわったが、それができる時代ではなかった。とにかく1日3億円の赤字が出ていたのだ。私は原料担当の常務として固定費削減を唱え、これからの経営をどうすべきかを話し合う社内委員会のメンバーになった。
委員会では当社の粗鋼生産が2400万トンでも利益が出る体質にしようということでまとまった。日本全体の粗鋼生産がピークだった73年には当社生産は4000万トン、84年でも3000万トン近くあった。13本ある高炉のうち、5本の休止を決めた。高炉は街のシンボルというところもあり、休止は大きな社会問題になった。会社にとっては雇用をどうするかが最も苦労した点だ。社員数は当時、6万4千人。製鉄所の敷地や温水を利用した花やキノコの栽培、チョウザメの養殖など、新規事業を次々と手掛けた。社員の約四分の一は子会社に出向してもらったが、当社と子会社の給与差額は当社が保証した。1万7千人の出向者への差額負担は年間900億円。また、転職者には退職金を割り増しし、本社で60歳まで働いたのと同じ金額を支給した。ただ、「娘の結婚式まで新日鉄社員でいたかった」と悲しんだ人もいた。会社としては最大限のことをしたと思うが、こう言われたときはつらかった。