掲載時肩書 | 中電会長・中経連会長 |
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掲載期間 | 1967/03/07〜1967/04/04 |
出身地 | 東京都三田 |
生年月日 | 1899/08/16 |
掲載回数 | 29 回 |
執筆時年齢 | 68 歳 |
最終学歴 | 東京大学 |
学歴その他 | 一高 |
入社 | 東邦電力 |
配偶者 | 木越男爵娘 |
主な仕事 | 早川電力、米国、東京電力(早川・群馬電力合併)中部電力、中部経済連合会、世界動力会議、 |
恩師・恩人 | 松永安左エ門、 |
人脈 | 石黒信彦(一高)、進藤武左ヱ門(会社同期)大来佐武郎(大学後輩)、海東要造、中山伊知郎、松本烝治、横山道夫、小林中 |
備考 | 父角五郎(福沢先生の直弟子:政治家・実業家) |
1899年(明治32年)8月16日 – 1981年(昭和56年)11月18日)は東京生まれ。実業家。中部電力会長、中部経済連合会会長を務めた。1959年(昭和34年)に大同製鉄(現・大同特殊鋼)監査役となる。以後以下の役職を歴任した。大同学園(大同大学)理事 – 1961年(昭和36年)、中部経済連合会会長 – 1962年(昭和37年)、電気学会会長 – 1964年(昭和39年)、日本電気協会会長 – 1965年(昭和40年)、日本動力協会会長、名古屋鉄道監査役、中部日本放送株式会社監査役、日本気象協会会長。父親・角五郎と福沢先生との子弟関係やその業績を詳しく書いている。
1.父・井上角五郎と福沢諭吉先生
父は記憶力が非常に優れていたが、数学も才能を認められ、福山の藩校・誠之館から準得業生の称を受けて月々多少の手当てを支給されていたようである。しかしこれに甘んずることなく、18歳のときに東京に出て、別段の紹介もなく、福沢先生の門をたたいた。父の請いを聞かれた福沢先生は紙筆を与えて志望を書くように命じた。父は直ちに漢文で答えたそうであるが、それ以来父は先生の子女たちの家庭教師という名目で福沢邸に寄宿することになった。そして子女たちに漢学を教えながら、慶應義塾に通学し、結婚後も同居して前後19年間、直接指導を受けたと聞いている。
父が韓国政府の顧問になったのも、福沢先生の命であり、代議士に出たのもその了承の上である。また、北海道炭鉱汽船会社に関係したのもその勧奨であるが、これは先生が、政治家といえども独立心として、人の世話にならずに生活する道を持たねばならないと訓戒されたからである。
2.米国GEでの実習
大正14年(1925)、私は第1回の実習生として、同僚の岩淵君と米国GEに留学することになった。会社からは往復の旅費その他の雑費として二千ドルを支給されただけである。GEの給与は一時間50セントという時間給で、全くの職工並みである(フォードが最低賃金として、日給5ドルを支給していた時代である)。
風習の違いもいささか気になった。工場の昼食はサイレンとともに食堂に駆け付けて、ベルトコンベアーで運ばれる皿から、素早く気に入ったものを選ぶのであるが、せっかく米の飯もあるのに、彼らはこれに牛乳をかけて食べる。犬の食事が連想されて、私はついにこれが食べられなかった。工場に行けば、まず作業衣に着替える。当時はパンツやショーツを履いている男はいなかった。郷に入れば郷に従ったが、少しばかり気後れした。すこぶる異様だったのは便所である。何十と並んだ大便所に、一つも扉がない。全くの空けっ放しである。ここで平気で用が足せるようになるにも多少の時間を要した。
こうしてブツブツ言いながらも、工場通いは続けた。何しろ1分遅れても三分の一の給料を差引かれる代わりに、1分でも残業すれば、またそれだけの加給がある。給料を得なければ、何ともやっていけない労働者の立場を否応なしに身に沁みて体験したのである。このことは後年、私が労働問題で、電産の組合員諸君と論争を交えなければならなくなったときに、大変役に立ったのだった。
3.松永安左エ門翁の訓え
1945年の翌年には早くも電力の制限が始まった。電力制限はそれから10年以上も続き年中行事となった。しかもそうした中で私の最も心配したのは占領政策によって電力設備の一部が賠償として接収されるという報道であった。何としても前途に希望を見いだせなかった私は、尊敬する松永翁に意見を聞きに行った。翁は私を顧みて「何も君のように悲観することはない。日本人には必ず道が開ける」と言い切られた。
そして「新しい配電会社が設立され、君たちの努力でせっかく業績を上げているのは結構だが、日本では電気事業は最大の企業の一つである。ビッグビジネスで一番肝心なことは人材を養成することだが、また人材はそうしたビジネスの中で養成されるのだ」と言われた。私には今もって忘れられない言葉である。モノをつくるより人を創ること、それは経営者にとっての最大の責務である。