掲載時肩書 | 作家 |
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掲載期間 | 1957/01/12〜1957/01/26 |
出身地 | 東京都 |
生年月日 | 1889/11/07 |
掲載回数 | 14 回 |
執筆時年齢 | 68 歳 |
最終学歴 | 慶應大学 |
学歴その他 | 慶應予科 |
入社 | 寄稿 |
配偶者 | 友人養女、喜多村禄郎媒酌 |
主な仕事 | 戯曲、俳句、古劇研究会、国民文芸会、慶応講師、「大寺学校」、東京中央放送局、「文学座」 |
恩師・恩人 | 小山内薫 、永井荷風 |
人脈 | 水上廉太郎、沢木四方吉、小泉信三、芥川、久米、岸田国士、泉鏡花、奥野信太郎 |
備考 | 無道楽 、勝負事無 |
1889年(明治22年)11月7日 – 1963年(昭和38年)5月6日)は東京浅草生まれ。小説家、劇作家、俳人。耽美派(三田派)の新進作家として登場。劇作でも慶大在学中から注目され 、築地座を経て文学座創立に参加。新派、新劇、歌舞伎の脚色・演出と多方面に活動を展開 。日本演劇協会会長を務め、文壇・劇壇に重きをなした。小説戯曲共に多くは浅草が舞台で、江戸情緒を盛り込んだ情話で長く活躍。文人俳句の代表作家 としても知られ、俳誌「春燈」を創刊・主宰した。
1.慶応予科の文科
明治42年(1909:21歳)のとき、慶応普通部を出て、大学予科に入った。そのとき、ぼくの文科を選んだことが、いかに同級生たちの笑いものになったことか。それはそうだろう、その頃の慶應義塾の文科といったら、あってなきに等しい存在だったのだから。そして、およそ文学に縁のない“文科”だったのだから。学生の数にしても、予科、本科をあわせて、14,5人しかいないという、お話にならない貧乏所帯だったのだから・・・。
―お前、文学をやるんなら、わるいことはいわないから、早稲田へ行けよーと本気で言ってくれる仲間もいた。が、こっちにすると本気で文学をやるつもりはなく、徴兵猶予の切れるまでの期間を、ただ少しでも好きなミチクサが喰いたかったからである。
2.三田文学の創刊
翌明治43年(1910:22歳)に突然 “文科の機構に大改革があり、森鴎外、上田敏を顧問に、永井荷風が入って事実上の主任教授となり、「三田文学」という機関雑誌が創刊される”ことになった。この発表の掲示を見出した時のぼくのよろこび・・・・とはいうまでもない。翌年6月、初めて書いた「小説朝顔」が、7月、初めて書いた戯曲「遊戯」が、ともに「三田文学」に載った。「朝顔」は毎日新聞で小宮豊隆に、「遊戯」は国民新聞で島村抱月に、おもいもよらず褒められた。別に、その前、博文館の雑誌「太陽」の募集にひそかに応じた戯曲「プロローグ」が小山内薫によって認められ、やっぱり7月、その雑誌に掲載された。
3.慶応の嘱託と結婚
大正8年(1919:31歳)4月、慶応大学の嘱託になった。と、いうことは、文学部予科の「作文」の先生になったのである。そしてぼくは、その後大正15年までの7年間、この非常勤の、月給11円の先生を勤めた。
6月、喜多村禄郎の媒酌で、子供時代からの友達大場惣太郎養女京と結婚した。山谷の「八百善」で披露した・・・といっても、ぼくが自分でしたのではなく、親たちがしてくれたのだ。「国民文芸会」のれきれきも喜んで来てくれ、余興に、吉原の芸妓が「高砂丹前」を踊ってくれた。
4.芥川竜之介への思い
彼は第三中学で、ぼくの二年下にいたというのだが・・すなわちぼくの三年の時、一年にいたわけだが、そのときぼくは、ちっとも知らなかった。知りあったのは、ずっとあと・・・・かれが立派に新進作家になってからで、さらに、もっと、割った付合いをやるようになったのは、ぼくが日暮里に住むようになってからだった。ぼくの家と、彼の田端の家とはほとんど崖つづきだった。ときどき思い出したように、我々は、きわめて自由に、訪ねたり、訪ねられたりした。
彼については、ぼくはいろいろ書きすぎるほど書いている。が、ただ一つ、今まで言わなかったことがある。それは、もう一年、彼が命をながらえたら、決して、ああした挙措にはでなかったであろうとともに、文学の制作は制作として、べつに、何か、職業(もちろん、文学につづき合いをもつ)をもったのではあるまいか・・・といううたがいである。彼には指導者としての才能が十分にあった。ぼくが一度捨てた俳句を、再び手元に引き寄せるにいったのも、偏に、この時代、彼を「隣人」に持ったからである。
久保田 万太郎 (くぼた まんたろう) | |
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1953年、木村伊兵衛撮影 | |
ペンネーム | 千野 菊次郎 |
誕生 | 1889年11月7日 日本・東京府東京市浅草区 (現・台東区) |
死没 | 1963年5月6日(73歳没) 日本・東京都新宿区信濃町 |
墓地 | 日本・喜福寺 |
職業 | 小説家・劇作家・俳人 |
言語 | 日本語 |
国籍 | 日本 |
教育 | 学士(文学) |
最終学歴 | 慶應義塾大学部文学科 |
活動期間 | 1912年 - 1963年 |
ジャンル | 小説・戯曲・俳句 |
文学活動 | 江戸文化 歌舞伎評論 新派 |
代表作 | 『末枯』(1917年) 『大寺学校』(1927年,戯曲) 『道芝』(1927年,句集) 『花冷え』(1938年) 『市井人』(1949年) 『三の酉』(1956年) |
主な受賞歴 | 菊池寛賞(1942年) 読売文学賞(1957年) NHK放送文化賞(1951年) 文化勲章(1957年) 贈従三位・勲一等瑞宝章(1963年、没時叙位叙勲) |
デビュー作 | 『浅草』(1912年) |
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久保田 万太郎(くぼた まんたろう、1889年〈明治22年〉11月7日 - 1963年〈昭和38年〉5月6日)は、日本の小説家、劇作家、俳人。俳号はじめ暮雨。のち傘雨[1]。他に筆名千野菊次郎。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。位階・勲等は従三位・勲一等。
浅草生まれ。耽美派(三田派)の新進作家として登場。劇作でも慶大在学中から注目され[2]、築地座を経て文学座創立に参加。新派、新劇、歌舞伎の脚色・演出と多方面に活動を展開[3]。日本演劇協会会長を務め、文壇・劇壇に重きをなした。小説戯曲共に多くは浅草が舞台で、江戸情緒[4]を盛り込んだ情話で長く活躍。文人俳句の代表作家[5] としても知られ、俳誌「春燈」を創刊・主宰した。