掲載時肩書 | 日銀政策委員 |
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掲載期間 | 1956/09/22〜1956/10/05 |
出身地 | 静岡県浜松 |
生年月日 | 1886/05/26 |
掲載回数 | 12 回 |
執筆時年齢 | 70 歳 |
最終学歴 | 早稲田大学 |
学歴その他 | 浜松一中 |
入社 | 第百銀行 |
配偶者 | 金原翁孫娘 |
主な仕事 | 三菱銀、浜松銀行(父)→静岡、浜松新聞、芸者スト、地方銀行協会設立銀行、地方銀行協会会長、日銀政策委員 |
恩師・恩人 | 金原明善 |
人脈 | 安部磯雄先生、飛田穂洲、田尻稲次郎、池田謙三、一万田総裁 |
備考 | 野球チーム 、罪人更生会 |
明治19年5月26日 (1886)~昭和41年(1966)12月6日、静岡県生まれ。明治41年(1908)早稻田大學政治経済科を卒業し後、実業界に入り現・遠州銀行常務取締役の外、濱松貯蓄銀行常務取締役、濱松合同運送、遠州保險代辨各(株)取締役、地方銀行協会会長、日銀政策委員などを歴任する。12日間の連載でしたが、語り口が軽妙洒脱で面白く、楽しく読めました。
1.うなぎの「恨み」は果たせず
浜松一中時代、私たちはウナギ屋の前を通るたびに鼻をヒクヒクさせたものだ。ところが学校では、生徒がうなぎ屋に行くことを禁じていた。ぜいたくを戒めるためであったろうと思う。私はそれを百も承知しながら、ある日たまりかねて、たしか川根屋という家だったと思うが、そのうなぎ屋の二階に上がって豪遊と洒落込んだ。とろけるような舌ざわりに、われを忘れてガツガツやっていたのは良かったが、武運つたなく、英語の教師に見つかってしまった。とはいえ、いかなる先生でも、ふところに十手をのむ岡っ引きではないから、川根屋の二階に踏み込んで「御用ッ」というわけにはいかない。そこで腹いせに、うなぎ屋の玄関から私のゲタを持って行った。うなぎ屋の二階で小型お大尽を決め込んだのもつかの間、帰りははだしでピタピタという情けない仕儀に相成ってしまった。「この恨み、いかで晴らさでおくべきか」だった。
時節到来!くだんの先生は独身者だったが、ある夜密かに遊郭に足を踏み入れたという情報をキャッチし、おまけにあがった妓楼まで確かめることができた。私は喜び勇んで女郎屋の前に駆け付け、物陰に隠れながら夜通し先生の出てくるのを待った。しかし、結果は失敗に終わった。先生は裏口から逃げたらしく、ついに私の網にはかからなかった。白々と明ける暁の町を、私は敗軍の将のようにすごすごと引き揚げざるを得なかった。
2.金原明善翁の人柄
明治41年(1908)3月、私は早稲田の政経を卒業した。ホッとしていると国のおやじから「人間は学校を出ただけではだめだ。誰か偉い人に付いて、みっちり修業しなきゃいかん」と言われ、父の紹介で金原明善という人のカバン持ちになった。そして半年ばかり金原翁と起居を共にした。
翁は天竜川周辺の治山治水に全財産を投じた人で、修身の本などに載るほどの立派な人であった。翁は一言にしていえば、自分に厳しい人であった。翁はふだん、ほうばのゲタを履いていて、歯がすり減ると取り替えて履き、またすり減ると歯入れをするという具合に、台のもつ限り履き続けた。また一緒に旅をすると、車中で駅弁を買って食べるのだが、翁は弁当箱を開けると、外へこぼれない程度に静かにお茶を振りかけて、一粒のめしもおろそかにしないで丁寧に食べ、残ったおかずも、きちんと包んで家に持って帰えられた。人からもらった手紙の封筒も、必ず裏返しにして二度目の役に立たせたのである。山へ行くときはワラジだったが、先生はそのワラジの右と左を、途中で何回も履き替えた。人の足にはそれぞれ癖があるから、面倒でも何回も履き替えて使うと長持ちするというのである。
翁は、つまり個人の欲望を抑えて、治水など公の利益に尽くそうという考えから、徹底した生活の合理化を実践したのである。この経験が私の人生勉強の上で大変プラスになったと大いに感謝している。
3.芸者ストの主導(前代未聞)
浜松には芸者が多かった。当時浜松の芸者の数は静岡の3倍から、多い時は5倍(500人)もいた。どうしてそんなに浜松に芸者が多いのかというと、遠州織物が盛んだった関係で、地方から商人が集まって来てどんちゃん騒ぎをやったからだと思う。私も仕事の関係でよく芸者をあげて遊んだものだが、そこで芸者衆のために奮起一番、世にも珍しい芸者のストライキのリーダーとして、奮然、立たねばならぬ仕儀と相成った。どうして私が芸者をそそのかしてストライキをやらせたか、という事情を説明する。
全国的かどうか知らないが、私の見るところでは、そのころ、浜松の芸者の待遇は悪かった。線香代はたしか一本12銭5厘だったと思う。いかに何でも、これでは可哀そうだ。どんなに稼いでも、料理屋と置屋に取られてしまう芸者のみじめな立場を思うと、フェミニストかどうか知らないが、私には我慢ならなかった。料理屋と置屋の搾取がひどかったのだ。そこで、あちこち回って運動したがラチがあかない。ここまで来たら仕方がない。匙を投げた私は芸者衆のねえさん株を一堂に集めて、ストライキをやれと命じた。
芸者も口がある以上、食っていかねばならないから、最低限度の生活は私が保障することにして、ついに浜松としては前代未聞の芸者のストライキとなった。やったからには勝たねばならない。野球の応援を違って、この方は生活と繋がっているので、こっちも必死だ。500人もの芸者を一か所に集め、どんな事情があろうと、私の許可なくして料理屋へ出ることはまかりならん、ということにした。
芸者だから、中には旦那のある者もいる。しかし、たとえ相手が旦那であろうと、勝手に出てはならない。どうしても出なければならない事情があったら、その必要な日時と旦那の名前を私に届けるように言った。旦那の名前まで届け出るとあってはどうしても遠慮が出る。そこを私は狙ったのだ。闘争実に60余日、遂に芸者側が勝った。万歳だ!芸者衆の収入が、その時からよくなった。私は満足だった。
ストライキの結果、芸者衆の手取りは増えたが、増えた分を無意味に使っていたのでは芸者の生活は向上しない。私は芸者衆を前にして貯蓄の必要性を説いた。彼女らの努力によって私の立替金は瞬く間に回収され、四方八方まるくおさまった。彼女たちがその後の人生を幸福に送った人も多く、役だった。