掲載時肩書 | 生物化学者 |
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掲載期間 | 2010/07/01〜2010/07/31 |
出身地 | 京都府 |
生年月日 | 1928/08/27 |
掲載回数 | 31 回 |
執筆時年齢 | 82 歳 |
最終学歴 | 長崎大学 |
学歴その他 | 長崎医科大 |
入社 | 長崎大薬学指導員 |
配偶者 | 薬学部後輩8下 |
主な仕事 | 長崎原爆、名大国内留学、プリンストン大学:海ほたる→オワンクラゲ25万匹(GFP20万匹:N賞)、ウッズホール海洋生物学研究所 |
恩師・恩人 | 安永峻伍 (長崎)、F・ジョンソン教授 |
人脈 | 小林五郎、平田義正(名大教授)、南部・益川・小林(N賞同時) |
備考 | 発光生物研究に55年 |
1928年(昭和3年)8月27日 – 2018年(平成30年)10月19日)は京都府生まれ。有機化学・海洋生物学を専門とする生物学者、中でも生物発光研究の先駆者であり第一人者。発光生物についての研究を継続。その中の一つ、オワンクラゲの緑色蛍光タンパク質の発見は、その後生命科学、医学研究用の重要なツールに発展して2008年(平成20年)のノーベル化学賞受賞に結びついた。ボストン大学名誉教授、ウッズホール海洋生物学研究所特別上席研究員、名古屋大学特別教授。
1.ウミホタルに取り組む
1955年4月、名古屋大学の平田義正教授のもとで研究生活が始まった。最初の日、平田先生は大きな真空乾燥器に入った砂のようなものを私に見せた。これが初めて見る、乾燥ウミホタルだった。平田先生は次のようなことを説明された。①ウミホタルは体長2mmほどの小さな甲殻類(ミジンコの仲間)で、日本沿岸に多い生き物であること、②ウミホタルは刺激を受けると青い光を出すが、これはルシフェリンという物質が、ルシフェラーゼという酵素(タンパク質)により酵素と結びつき、そのエネルギーによって発光が起こること、③生物発光の研究が世界で最も進んでいる米プリンストン大学でも、このウミホタルのルシフェリンを精製する努力を永年続けてきたが、まだ完全な精製にいたっていないこと、などである。
そして私に「ルシフェリンの構造決定をするために、乾燥ウミホタルからルシフェリンを精製して、結晶にしてください」と指示された。当時は、結晶化することが物質を純粋であることを示すほぼ唯一の方法だった。さらにこのテーマを私に与える理由をこう説明された。「このプロジェクトは果たして成功するかどうか分らない。だから学位目的の学生にはやらせられないのです」。私は、与えられた仕事の難しさをはっきり理解した。
2.ルシフェリンの結晶に成功
平田先生から特製の装置を調達してもらい、試行錯誤をしながら装置と格闘するうちに、精製には成功した。500gの乾燥ウミホタルから2mmのルシフェリンの精製物が得られた。しかし、結晶化の実験はなかなかうまくいかなく何度も繰り返した。結晶ができたのは、実験を始めて約10か月経た、1956年2月だった。
その前夜、いつものように結晶を作る努力を続けていたが、夜10時頃には、実験のアイデアが尽きてしまった。手元には、精製したルシフェリンが少し残っていた。濃塩酸を加えて加熱せずそのまま帰宅した。翌朝来て見て、おやっと思った。昨晩、赤色だった溶液が無色透明に変わっていた。恐らく加水分解の反応で、透明になったのだろう。よく見ると、試験官の底に黒っぽい沈殿物がほんのわずか、ゴミのように溜まっている。顕微鏡で観察すると、それは赤い色をした針状で、まさしくルシフェリンの結晶だった。
濃塩酸を加えるという、単純だが、誰も予想もしなかった方法で、結晶ができたのだ。今考えてもこのような不安定な物質が結晶になることは奇跡的なことだと思う。
3.オワンクラゲの採集
1961年6月、プリンストン大学のフランク・ジョンソン教授と助手、そして私と妻がクラゲ採集に出発した。目的地はシアトル北方の小さな島々にある静かな漁村だった。クラゲは実に豊富にいた。朝夕、潮の干満による潮流に乗って、臨海実験所の桟橋の下を、群れを成して流れていた。
オワンクラゲは成長したものは直径7~10cmで、重さは約50g。オワンの名の通り半球形で、透明度が非常に高いため凸レンズの代用になり、太陽光を集めて紙に火をつけることさえもできる。クラゲの体はデリケートで、目の粗い網で採ると、発光器の部分を傷つけてしまう恐れがある。水泳プールの掃除に使うような目の細かい特殊な網で、クラゲを一つひとつ注意深くすくい上げた。あたりにはほかの種類のクラゲも沢山いるので見分ける必要がある。その後は、リングを切り取る作業が待っている。クラゲの発光器の部分だけハサミで切り取って、試料にする。研究に不必要な大部分のボディは海に捨てた。
4.ついに発光原因を発見
試行錯誤の研究に行き詰まり、1週間くらいたったある日の午後、ボートの上で一案がひらめいた。ごく単純な考えだった。生物の発光には多分、たんぱく質が関係している。そうであれば発光は酸性度、すなわちPH(水素イオン指数)によって変わるであろう・・・。なぜ、こんな簡単なことに気づかなかったのだろう。すぐに研究所に戻り、種々の酸性度の溶液を作り、クラゲから切り取った光る部分(リング)を抽出してみた。
抽出液はPH7で光り、PH6でもPH5でも光った。しかし酸性度が高いPH4では光らなかった。そこでリングをPH4で抽出してろ過したところ、予想通り全く光らなくなった。ところがそれを重曹で中和したら、また光りはじめた。私はついに抽出法を発見したと思った。ところが次の瞬間、本当に驚いたことが起こった。
実験に使ったPH4の抽出液を流しに捨てたところ、流しの内側が、ぱあっと青く明るく光った。部屋全体が明るくなったと感じたほどの輝きだった。
その1961年の夏、2か月で1万匹のクラゲを採り、発光物質を抽出しプリンストン大学に持ち帰った。精製を始め、翌春、数mgのほぼ純粋な発光物質を得た。その物質は微量のカルシウムイオンを加えると光るのだが、驚いたことに、空気がなくても発光した。生物発光は酸素分子による酸化反応のエネルギーで起きるというのが常識だったので、理解に苦しむ結果だった。この奇妙なたんぱく質を我々は、オワンクラゲの学名イクオリアにちなんでイクリオンと命名した。
さて、この作業中、クラゲは緑色に光るのに抽出物は青く光るということが気になっていた。イクリオンの精製中に緑の蛍光を放つ物質も微量発見したので、ついでに精製した。それが緑色蛍光たんぱく質「GFP」だった。クラゲと同じ色に光るこの興味あるたんぱく質を、少しずつためておいた。
5.ノーベル賞受賞スピーチ
2008年12月8日の「緑色蛍光たんぱく質GFPの発見」と題した受賞記念講演では、長崎の原爆の話から切り出した。
「私の話は長崎の町が原爆によって破壊され、第二次世界大戦が終わった1945年から始まります」。会場正面のスクリーンには、原爆で跡形もなく破壊された当時の長崎医科大学の写真が映し出された。原爆の話から始めたのは、他でもない。私の人生、ことに研究者としての人生は、戦争が終わってから始まったようなものだ。戦前の子どもの時期に将来に向け描いてきた夢は、戦争によって否定され無視された。戦後は、運命に導かれるように生物発光の研究に入った。それが、このような成果に結実しようとは考えてもいなかった。
私の人生には巡り合わせという言葉がつきまとうが、原爆や終戦こそが最も大きなめぐり合わせかもしれない。講演では、クラゲ採りの苦労話や、研究を導いてくれた恩師の話を織り交ぜながら、GFPの発見への長い道筋が理解してもらえるよう話したつもりである。
氏は’18年10月19日90歳で亡くなった。この「履歴書」に登場したのは2010年7月の82歳のときだった。冒頭、氏は「手掛けた発光生物は日本でのウミホタルを皮切りに、渡米後はオワンクラゲやオキアミ、ホタルイカ、発光キノコなど1ダースにもなる。これだけ研究してもなお、発光生物の世界は謎に満ちており、興味が尽きることはない」と書いている。
ノーベル賞の対象となるオワンクラゲの発光にかかわるたんぱく質の研究に成功したのは、その直前に日本で最初に手がけたウミホタル結晶化の知識があったからだった。千葉の海にはウミホタルがたくさんいるが、その精製物に濃塩酸を加えることで、だれも予想しなかった偶然の方法で、結晶ができたのだった。以来、この成功が「どんな難しいことでも努力すればできるという信念を得ることができた」と述懐している。
オワンクラゲの採集とその発光物質イクリオンの抽出作業は、10数年間、毎年夏になると、氏の家族と研究グループが大陸を横断し、クラゲ採りのシーズンを過ごした。クラゲ採りは朝6時に開始。グループの一部は8時にクラゲの発光部分を切り取る作業。午後は全員でクラゲからイクリオンを抽出し、夜は7時から9時まで、翌日処理するためのクラゲを採る。毎日15時間労働だった。「私と妻はもちろん、二人の子供たちも3~4歳のころから特製の短い柄の網でクラゲをすくっていた。67年から5年をかけて25万匹ものクラゲをとり、そこから抽出した成分を基に構造を決定できた」。
オワンクラゲから得た緑色発光たんぱく質(GFP)は、オワンクラゲの発光の研究中に副産物として発見されたのであり、この発光クラゲの研究なくしてはその発見はなかったと。現在、GFPとそれを改良した蛍光たんぱく質は、生体内のたんぱく質や組織に印をつけるマーカーたんぱく質として、世界中で広く使われ、医学や生物学の研究に欠くことのできない道具になった。これが高く評価されノーベル賞につながった。
下村 脩 | |
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スウェーデン王立科学アカデミーにて 2008年12月7日 | |
生誕 | 1928年8月27日 日本・京都府福知山市 |
死没 | 2018年10月19日(90歳没) 日本・長崎県長崎市 |
居住 | 日本 満洲国 アメリカ合衆国 |
国籍 | 日本 |
研究分野 | 生物学 |
研究機関 | 旧制長崎医科大学 プリンストン大学 名古屋大学 ボストン大学 ウッズホール海洋生物学研究所 |
出身校 | 佐世保中学校 (現・佐世保南高等学校) 長崎医科大学附属薬学専門部 (現・長崎大学薬学部) |
博士課程 指導教員 | 平田義正 |
主な業績 | イクオリンの発見 緑色蛍光タンパク質の発見 |
主な受賞歴 | 朝日賞(2006年) 文化功労者(2008年) 文化勲章(2008年) ノーベル化学賞(2008年) |
プロジェクト:人物伝 |
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下村 脩(しもむら おさむ、1928年(昭和3年)8月27日 - 2018年(平成30年)10月19日[1])は、生物学者(有機化学・海洋生物学)。
学位は理学博士(名古屋大学、1960年)。位階は従三位。ボストン大学名誉教授、ウッズホール海洋生物学研究所特別上席研究員、名古屋大学特別教授。