三船久蔵 みふね きゅうぞう

スポーツ

掲載時肩書講道館十段
掲載期間1957/10/14〜1957/10/28
出身地岩手県
生年月日1883/04/21
掲載回数15 回
執筆時年齢74 歳
最終学歴
慶應大学
学歴その他早大予
入社東大柔 道指導
配偶者2日で 結婚(兄嫁の姪)
主な仕事講道館、広告専門新聞、東大・明大・日大等柔道師範、「心神一致」、段位年表、7段空気投げ、天覧試合
恩師・恩人嘉納治五郎、横山作次郎6段、
人脈杉村陽太郎(三段)、佐村嘉一郎(七段)、田畑昇太郎(八段)、近藤時次郎
備考柔道哲学「心身一致」
論評

1883年〈明治16年〉4月21日 – 1965年〈昭和40年〉1月27日)は岩手県生まれ。柔道家。段位は講道館柔道十段。身長159 cm、体重55 kg。小柄な体型ながら空気投げなどの新技をあみ出し、1945年(昭和20年)最高位の十段を授けられ名人の称を受ける。「理論の嘉納、実践の三船」といわれ、柔道創始者である嘉納治五郎の理論を実践することに力をいれたことから柔道の神様とあがめられた。多数の大学・専門学校、警視庁等の柔道師範として柔道の普及、後進の育成にも多大な功績を残した。柔道審判員としても活動し、1956年に東京で開催された世界柔道選手権大会で審判を務めた。1964年の東京オリンピックでは柔道競技運営委員を務め、国際的競技としての「柔道の完成」を見守った。

1.柔道哲学「心身一致」は体験から会得
「剣というものは手によってこれを使う」といわれる。手はその人の心によって使う。だから手は心に従わねばならない。それならば、心は何によって知るかと言えば、それは科学的な分析によるのである。これは言葉を変えて言えば「法」によって心が動かなければならないといことである。そしてまた一歩進めれば、剣道だから、剣は手に持たねばならないのは自明である。しかし手によってやるのだが、その手は心を通さなければならない。思うとおりにやっても心の動きは法にちゃんとかなっていなければならない。このことを私は科学的というのである。しかしその「法」が今度は「神」によって現れてこなければならない。こういうふうなことを考えていくと、そこに初めて「心身一致」の境地が出てくる。これを人は難しいと言うが、私はこれこそ最も平凡な真理だと考える。
 要するに、人間のやることはすべて、なる通りになるということである。これが「法」ということである。私は頭で考えてちゃんと理屈はそうなっても、自分の経験しないことを発表してもダメだと思い自分で体験することにした。体得するには何が必要かといえば錬磨である。そのために私はいま67歳でも時間の許す限り、道場に行って毎日けいこしている。柔道の寒げいこ、暑中げいこは一か月だが、私は60年間これを続けてきた。講道館の寒げいこ、暑中げいこを55回ずつ全部やってきたわけである。

2.「空気投げ」の発明
私は実は案外な空想家なのだ。「相手の体に一指もふれず、オレが相手の前に立った瞬間、パッと、相手がどこかへ飛んでしまうという手はなかろうか」と真剣に考えたのであった。どうも、こんな昔の講談にあるようなことは実際にはありっこないが、それでも法にかなったやり方で、なんとかできぬものか。それを私は空想し、次には研究し、さらに実際に試してみたのである。
 私は力の原理を考えた。球は当たった瞬間にポンとはね返る。この原理は何にでも当てはまる。球というものは平面的に言えば円であり、立体的にいえば球である。この二つから考えた。「押さば引け、引かば押せ」ではなく、「押さばまわれ、引かばななめに」というのが本当だと気付いた。こうして編み出した手がいわゆる”空気投げ“である。
 相手の動きを利用するのだ。自分もそれについて動く。まだ体と体がぶつからない前に相手を投げられればよい。あるとき相手の袖を掴んでいて、ちょっと動いたらポンところんだ。「しめた。これだ」この技は両袖をとって相対しているとき、相手が動き移ろうとする瞬間に身を縮めつつ、敵を押上げて、その重心を奪うのである。つまり、体をまるくさばく。相手はフンワリと宙に浮き、ストンと倒れる。球の原理を利用したものだ。足も腰も使わない。私の空想はついに実を結んだのである。大正12年(1923)、七段の時のことである。

3.嘉納治五郎先生から注意受け
私は5段までは非常に昇進が早かったが、5段から6段に進むのに8年近くかかった。8年間ストップしたのは私の業(わざ)が未熟のためではなく、ケンカをしたのが大いにたたったのである。といっても5段になってからケンカをしたわけではない。若い時分に荒れたものだから加納先生に睨まれたのであった。
 「いくら強くても、ケンカを事としているような奴はだめだよ」と加納先生はきつい顔をして言われたのだった。私にしてみれば、いい人間とケンカしたわけではない。血気にはやって不良を少しやっつけただけだが、加納先生は「三船は、人がダカツの如く嫌っている奴から、またダカツの如く思われている」と皮肉られた。私はそのとき「それは私が非常にいい男だということです。たとえばどんな暴れん坊でも神様の前に行くと、日本人なら自然に頭を下げるように、僕のところへ来ると、どんな奴でも頭を下げるんです。いうなれば僕は神様のようなもんです」と言ったものだから、先生は「ああ言えばこう言い、こう言えばああ言うで、とてもお前などは5段の対面は保っていけない」と注意されたのだった。
 このように6段には8年後の大正6年(1917)になり、それから6年後の大正12年(1923)に7段になった。それ以後、昭和6年(1931)8段に、同12年(1937)9段、そして終戦の20年5月25日の楠公祭をぼくして10段に登ったのであった。

4.結婚(当日まで嫁の顔を見ず)
5段になり、多少とも世間から持てはやされるようになると私にもいくつかの縁談があったり、また宴席で知り合った芸者から真情を寄せられたりもした。しかし、武道を志す者は酒と女を慎まなければならぬと、かねてから心を引き締めていたので、私は30歳になるまで、そのような話に耳をかさなかった。
 だが、その「自立」目標の30歳になったころ、故郷の父から手紙が来た。「お前は嫁を探しているそうだが、ほんとうか。それは結構だが、他人が勧める嫁よりも、親兄弟がお前に適していると認める女性がこちらにいるから、それにしてはどうか」大体、このような趣旨であった。それで私は親心を非常にありがたく思い、それなら、その人に決めようと決心して、1週間ほど休暇をとり、すぐその晩の汽車で郷里に向かった。
 私はそのころ、東大を振り出しに明大、日大、国学院、東洋大、日本体育会、早稲田中学、東洋商業、赤坂中学など各学校の柔道師範をしていたころで、一日のヒマも惜しかった。だから結婚日を急がせたが、1週間以内の吉日を選ぶとなると、あと2日しかない。これを強引に押し切ってとうとう式を挙げてしまった。こんな結婚式もあるのだ。大正12年(1923)11月6日のことである。
 私はこの結婚式の日、初めて嫁の顔を見たのである。さすがに親兄弟が勧めるだけあって、なかなかの美人だ。人柄もいいらしい。いや、われから言うのも変だが、それから40周年経つ現在、ますます妻の人柄には敬服している。

みふね きゅうぞう

三船 久蔵
生誕 1883年4月21日
岩手県九戸郡久慈町(のちの久慈市
死没 (1965-01-27) 1965年1月27日(81歳没)
記念碑 三船十段記念館
国籍 日本の旗 日本
職業 柔道家
身長 159 cm (5 ft 3 in)
体重 55 kg (121 lb)
肩書き 講道館柔道十段
大日本武徳会柔道範士
受賞 正四位
勲二等瑞宝章
勲三等旭日中綬章
紫綬褒章
文化功労者
久慈市名誉市民
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三船 久蔵(みふね きゅうぞう、1883年明治16年〉4月21日 - 1965年昭和40年〉1月27日)は、日本柔道家段位講道館柔道十段大日本武徳会柔道範士

身長159 cm、体重55 kg。小柄な体型ながら空気投げなどの新技をあみ出し、1945年(昭和20年)最高位の十段を授けられ名人の称を受ける。「理論の嘉納、実践の三船」といわれ、柔道創始者である嘉納治五郎の理論を実践することに力をいれたことから柔道の神様とあがめられた。出身地の岩手県久慈市三船十段記念館が建てられた。

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