掲載時肩書 | クレアモント大教授 |
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掲載期間 | 2005/02/01〜2005/02/28 |
出身地 | オーストリア |
生年月日 | 1909/11/19 |
掲載回数 | 27 回 |
執筆時年齢 | 95 歳 |
最終学歴 | 独国フランクフルト大学 |
学歴その他 | ハンブ ルグ大 |
入社 | 17歳貿易 会社 |
配偶者 | 学生友ドリス |
主な仕事 | 20歳analist、22歳記者、人間・社会に興味、「会社という概念」、GE・IBMコンサル、分権化、目標管理、マッキンゼー、民営化、「現代の経営」 |
恩師・恩人 | 教師:ミス・エルザ、ミス・ゾフィー |
人脈 | 父・弟子(シュンペーター)=ケインズ講義、G・フロイト、ケインズ教授、デミング(QC)、盛田昭夫、立石一真、小林宏治、伊藤雅俊 |
備考 | 「マネジメント」発明者、父:行政高官 |
1909年11月19日 – 2005年11月11日)は、オーストリア・ウィーン生まれのユダヤ系オーストリア人経営学者。「現代経営学」あるいは「マネジメント」(management) の発明者。他人からは未来学者(フューチャリスト)と呼ばれたこともあったが、自分では「社会生態学者」を名乗った。『会社の概念』は政治学者ドラッカーの立場で書かれたもので、後の一連のマネジメント書とは違うものである。彼は「分権化」などの多くの重要な経営コンセプトを考案したが、その興味・関心は企業の世界に留まることを知らず、社会一般の動向にまで及んだ。「民営化」や「知識労働者」は彼の造語で、後に世界中に広まる。
1.両親の社交(交遊)
父は高級官僚だったし、母もフロイト博士の精神医学の受講もした教育者だった。両親は長年、週に数回のペースでホームパーティを開いた。毎週月曜日は父の主催で「政治の夜」が開かれ、政治家や学者、銀行家が集まった。水曜日は母主催の「医学・精神分析の夜」。金曜日は特に制限なしのパーティで、ドラッガー宅と友人宅で交互に開かれた。わが家の常連客の中には、ヨーゼフ・シュンペーターやフリードリッヒ・フォン・ハイエクらの著名経済学者の他、戦後に初代チェコスロバキア大統領になり、「建国の父」と言われるトマーシュ・マサリクもいた。
毎年クリスマスと正月になると、ウィーンの大女優マリア・ミューラーがわが家を訪ね、ゲーテやシラーなどの名場面を空で朗読してくれた。私が知る限り最高の美声だった。国籍も様々な人たちが訪ねてくる家庭環境で育ち、私は小さい時からドイツ語に加え英語とフランス語も自然に使うようになった。
2.22歳で記者兼教授になる
新聞社に入社2年後の1931年、3人いる副編集長のうちの一人へ昇格した。22歳になったばかりだった。自ら取材にも出かけ、地元の出来事をカバーした。台頭著しいナチス党首アドルフ・ヒトラーや右腕のヨーゼフ・ゲッベルスの演説を聞き、直接インタビューもした。一度ならず何度でもである。
ここフランクフルトでは二足の草鞋を履いていた。フランクフルト大学法学部では21歳で国際法の博士号を取得していた。それ以前から法学部の教壇に立つことが多くなっていた。国際法担当の老教授が病弱であったため、代役で国際法のゼミを主催したり、教授のクラスを代講したりしていたのだった。
3.GMのコンサルタント→「会社という概念」著作
ゼネラルモーターズ(GM)へコンサルタントとして招かれた1943年当時「マネジメント(経営)」をテーマにした書籍や論文は情けないほど少なかった。要は自分で一からやるしかなく、GMの調査には力が入った。
調査を費やした18か月の間に、シボレーやキャデラックなどの事業部はすべて、ミシシッピ川以東にある工場の大半も訪ねた。戦時体制下にある現場工場では愛国心に燃える労働者に直接取材。誰もがすぐに会ってくれたし、どんな質問にも答えてくれた。GMと私の懸け橋になってくれた副会長のドナルドソン・ブラウンの了解のもとで本を書いていると言えば、それで十分だった。このブラウンは有名な「デュポン式財務管理」を設計し、投資収益率(ROI)の概念を初めて経営に持ち込んだ人物だ。
GMのスターCEOはアルフレッド・スローンで凄い人だった。彼は「あなたが何を調べ、どんな結論を出すか、全てあなたの自由です。注文は1つだけ。(こんな助言なら気に入ってもらえそう)などと決して妥協しないで貰いたい」と言われた。従業員も幹部も尊敬し、一目置く特異な存在だった。
GMの調査を終えて、それを「会社という概念」にまとめて刊行したのは1946年。GM経営陣や出版社の予想に反してベストセラーとなった。この本は当のGMに拒絶された。けれども他の大企業には大きな影響を与えた。代表例は、GMとの競争に敗れて危機に見舞われていたフォード・モーターで、同社こそGM式の分権制に基づいて経営組織を再編成した最初の大企業だ。日本では事業部制で活用された。
氏は2005年11月11日、95歳で亡くなった。この「履歴書」に登場は同年の2月だったから、遺言のような貴重な連載記録となった。この「履歴書」を担当した牧野洋氏は下記の如く記している。
牧野 洋:文庫版・訳者あとがき
ピーター・ドラッカー氏が死去したのは2005年11月11日、96歳の誕生日まで一週間余りだった。私は誕生日カードを買い、コメントを書き、同氏に送ろうとしていた。その矢先だった。
その日の早朝、日本経済新聞社のデスクから緊急の電話が入った。「あと一時間しかないのだが、ドラッカーの訃報に合わせて、夕刊用に評伝を書いてもらえないだろうか」
2005年1月、クレアモントの自宅でドラッカー氏と会った際に、同氏の体調が悪いことは知っていた。だが、自伝『ドラッカー 20世紀を生きて』(その文庫版が本書)を同年8月に出版したばかりで、そこには「まえがき」も書いてくれていたのだ。予想外だった。
急いで原稿を書き終え、ひと息入れてからドリス夫人に宛てて電子メールを書いた。「ご主人による最後の本(自伝のことです)に協力した日本経済新聞の牧野洋です。誕生日カードを用意していたのですが、ご主人が亡くなられたと聞きました。お悔やみ申し上げます」
すぐに夫人から返事が来た。
「実は、私も誕生日カードを買ったばかりでした。ピーターが決して目にすることがないカードになってしまいました。ピーターは安らかに自宅で永眠しました」
ドラッカー氏死去のニュースは世界を駆け巡り、同氏の功績について世界の有力メディアはそろって最大級の扱いで報じた。
夕刊用に私は「二十世紀代表する知の巨人」との見出しで評伝を書き、翌日の朝刊には「『経営学の父』その思想と人生」と題して長文の解説記事を書いた。海外では、米ニューヨーク・タイムズ紙が「社会・マネジメント理論のパイオニア」、英エコノミスト誌が「二十世紀最高のマネジメント思想家」と伝えた。
Peter Drucker ピーター・ドラッカー | |
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生誕 | 1909年11月19日 オーストリア=ハンガリー帝国 ウィーン |
死没 | 2005年11月11日(95歳没) アメリカ合衆国 カリフォルニア州 クレアモント |
研究分野 | 経営学、社会学 |
出身校 | フランクフルト大学 |
影響を 受けた人物 | ヨーゼフ・シュンペーター |
主な受賞歴 | 大統領自由勲章(2002年) |
プロジェクト:人物伝 |
ピーター・ファーディナンド・ドラッカー(Peter Ferdinand Drucker、ドイツ語名:ペーター・フェルディナント・ドルッカー 、1909年11月19日 - 2005年11月11日)は、オーストリア・ウィーン生まれのユダヤ系オーストリア人[1]経営学者。「現代経営学」あるいは「マネジメント」(management) の発明者。
他人からは未来学者(フューチャリスト)と呼ばれたこともあったが[注釈 1]、自分では「社会生態学者」を名乗った。義理の叔父に公法学者・国際法学者のハンス・ケルゼン(母方の叔母であるマルガレーテ・ボンディの夫)がいる。
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