ジェラルド・カーティス じぇらるど・かーてぃす

学術

掲載時肩書米コロンビア大学名誉教授
掲載期間2024/12/01〜2024/12/31
出身地米・ニューヨーク
生年月日1940/09/18
掲載回数30 回
執筆時年齢84 歳
最終学歴
米国コロンビア大学
学歴その他New Mexico大
入社コロンビア大学
配偶者翠:版画家
主な仕事コロンビア大学、日米議員交流、下田会談、日米欧3極委員会、中国訪問、日米摩擦、北朝鮮訪問、花柳界勉強、
恩師・恩人ジェームス・モーリー教授
人脈岡本俊平、中曾根康弘、佐藤文生、山本正、三木武夫、竹下登、津川雅彦、安東仁兵衛、堤清二、武村正義、鳩山由紀夫、小泉純一郎、
備考祖父・ユダヤ系ウクライナ移民
論評

氏は外国籍「私の履歴書」登場者の40番目に当たるが、学者の登場はジョン・ガルブレイス(経済学:2004.1)、ピーター・ドラッガー(経済学:2005.2)、フィリップ・コトラー(マーケティング:2013.12)、廖一久(水産資源:2023.8)に次いで5人目である。氏は米国から見た日本政治の裏面史と課題を真摯に語ってくれていた。

1.米国人の日本研究者
私が、博士論文の調査のため日本に戻ったのは1966年、25歳の時だった。当時、日本の研究者にはライシャワー氏のように戦前、宣教師の家族として日本に住んだ第一世代、そしてコロンビア大学の恩師・モーリー教授、ハーバート・パッシン教授や日本文学のドナルド・キーン教授のように戦中に米陸軍や海軍の日本語専門学校で学んだ第二世代がいた。私は戦後の第3世代だ。米欧とは違うものの成功した日本の民主主義に好奇心を抱き、その仕組みを理解しようとの姿勢が第3世代の特徴だ。

2.日本選挙の実態(政治資金の流れ)と提言
1966年、中曾根康弘氏に佐藤文生代議士候補を紹介していただいた。別府駅に到着した私を佐藤氏はわざわざ出迎えてくれた。そして、彼の選挙運動をつぶさに観察させてくれたのは大きな幸運だった。佐藤夫人が私を一家に温かく迎えてくれたのも、中学、高校、大学生の3人の息子さんが丁寧に大分弁を教えてくれたのもうれしかった。大分弁で支援者と話すことで、後援会の酒席でも佐藤氏に付いてお流れを頂戴し、親しくなり仲間として迎えられるようになった。やがて選挙参謀の秘密会合にも立ち会うことが許され、集票や金銭の微妙な話も見聞させていただいた。戸別訪問を禁じた選挙法をかいくぐるため当時の別府市長は故人への挨拶を装った。「ごめんなさい」と言って支持者宅に上がり、仏壇に封筒を置いて手を合わせたが、封筒の中身は誰もが知っていた。投票への事前のお礼だった。
 政治家はどの国でも、政治資金の規制をすり抜ける天才だ。それ故に今日の政治改革をめぐる議論は的外れに感じる。選挙には良くも悪くもお金がかかり、足りなければ政治家は合法か否かにかかわらず何らかの手段で資金を集める。そうでなければ金持ちだけが政治を担うことになる。無論、どこかにタガをはめないと、米国のように事実上無限にお金を使える仕組みになる。だが大事なのはパーティ券の金額上限といった規制ではなく、透明性だ。お金の出入りに厳しい情報公開を義務付けることが、後ろ暗い資金の流れを断つにはよほど有効だ。

3.日米議員の共通点
日米の議員交流プログラムがうまく立ち上がったのは、太平洋の反対側で力を増す経済大国をもっと知りたいと願う若き議員らのおかげだ。その多くは、後に米政府で重責を担い、日本の政治家とも関係を持ち続けた。トーマス・フォーリー、ドナルド・ラムズフェルド、ハワード・ベーカー、ウォルター・モンデール、ノーマン・ミネタの各氏は、日本をより深く理解したいとの思いがとりわけ強かった。
 1970年代前半という時代ゆえ、日本経済の急成長がもたらす好機と課題に焦点が当たったのは当然だろう。日米の貿易摩擦や、これに伴う外交戦略の変化の可能性、さらに沖縄返還や米中接近の意味合いを巡り双方が主張をぶつけ合った。驚いたのは、政策ではなく政治に話題が移ると双方の議員の距離が一気に縮まったことだ。対照的な文化、選挙の制度やルール、慣習の違いにもかかわらず、選挙民の支持をどう勝ち取るかの手法は根底の部分でごく似通っていることを議員らは発見した。首都と選挙区を往来して政府の補助金を地元の開発事業に誘導し、有権者に恩を売って政治資金を集める。そうした日常は、日米だけでなく選挙で選ばれるどの民主主義国の議員でも共通だった。

4.米国・民主主義への危惧
50年前(1970年代)は今日と違い、当時の議員らには所属政党に関わらず、ある種の仲間意識があった。共和、民主の両党は政策を巡り衝突しても互いを尊重し信用していた。妥協こそが民主主義的な政府を機能させる肝だとも信じていた。しかし現在、妥協なしに主張をぶつけあうだけの政治がここまで米国に拡がり、合意を得ようとの意志さえ失われるとは想像もしていなかった。こうした考えが失われつつあるのは残念であり心配だ。しかも事態は改善するどころか、ますます悪化しているように映る。

5.選挙資金の渡し方(田中角栄氏と金丸信氏との違い)
竹下登氏との出会いは1970年代の初めだ。87年に首相になった彼も、1年半余りで辞任を迫られた。消費税導入とリクルートの未公開株を巡るスキャンダルで、支持率が急落したのが理由だ。辞任後の1989年6月自宅を訪ねると、いろいろ心境を吐露してくれた。そして、ふいに笑みを浮かべて、田中角栄氏と当時実力者だった金丸信氏のお金の配り方の違いを知りたいか、と私に聞いた。
 いわく金丸氏は政治資金を貰いに来る議員に封筒入りの札束を渡すとじっと見つめ、議員が中の1万円札を数え、礼を言うまで待つ。一方、田中氏は相手が封筒を開けようとするとそれを制し、「よしゃ、よしゃ、これを持って帰って頑張れ」と送り出す。議員が後で封筒を開くと、予想を超える札束が入っていたという。

6.組閣システムの裏側
竹下登氏は、首相を辞めたあとも、キングメーカーとして権力を保とうとした。自らが推した宇野宗祐首相が芸者スキャンダルで2か月余りで辞任すると、今度は海部俊樹氏を担いだ。同氏が国会で首相に指名される直前のある朝、議員会館のそばにある竹下事務所を訪ねた。彼は海部内閣の組閣をほぼ終えたが、閣僚ポストの一つをどうするか悩んでいると言い、紙に書いて説明を始めた。左側に派閥名、中央に派閥の人数、右側に各派閥に割り当てるべき閣僚ポストの数、という表だ。
 問題は派閥間のバランスの維持と新政権のイメージ向上のため民間から閣僚を1人迎えたいが、受け手が見つからないことだという。そこへ自民党の幹事長に就いた小沢一郎氏から電話が入った。目星をつけていた作家の曽野綾子氏に閣僚就任を断られたとの内容だった。竹下氏は、ならば外相ポストに駐米大使の松永信雄氏はどうかと言った。本人は乗り気でないとの感触を得ている、と小沢氏が答えると、竹下氏は「私が頼んでみよう」と言い、電話を切った。
 夜の9時を回っていたワシントンに電話が繋がると、彼は過剰なほど丁寧な言葉で松永氏の説得を始めた。まず夜分遅くの突然の電話を詫び、日本にとって今、外交がいかに大事かを説き、他に外相を務められる人物はいない、と美辞麗句を並べ立てた。その様子を私はただただ、感心して眺めていた。松永氏が熟慮して折り返し電話をしたいと言うと、竹下氏は「大使にそんなことはさせるわけにはいかない。こちらから明日の同じ時間にお電話を差し上げます」と言って静かに圧力をかけた。そして電話を切ると、すぐ私の方を向き「ダメだな」と言った。
 1時間以上も長居して帰る時、竹下氏はエレベーターまで見送りに来てこう言った。「カーティスさん、あなたは以前、代議士の誕生について書かれましたが、今日は大臣の誕生がわかったね」と。

7.日本の政治システムの課題
1990年代の閣僚人事は派閥の力学を操る自民党内の実力者が差配し、政策は官庁が握っていた。時を経て今、良くも悪くもこのシステムは崩れた。権力は首相官邸に集中し、野心ある官僚は「忖度」して官邸が嫌うことは言わない。派閥も解消されたが、それに変わる統治の仕組みも見えない。失敗を繰り返した政治改革の歴史から、今度は学ぶことができるのだろうか。

ジェラルド・L・カーティス
Gerald L. Curtis
生誕 1940年
アメリカ合衆国の旗 ニューヨーク州ニューヨーク
居住 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
研究分野 政治学
研究機関 コロンビア大学
出身校 ニューメキシコ大学卒業
コロンビア大学大学院博士課程修了
主な業績 『代議士の誕生――日本保守党の選挙運動』の執筆
主な受賞歴 大平正芳記念賞(1989年
中日新聞特別功労賞(2001年
国際交流基金賞(2001年)
プロジェクト:人物伝
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ジェラルド・L・カーティス英語Gerald L. Curtis1940年 - )は、アメリカ合衆国政治学者。米コロンビア大学名誉教授。大学院生時代に日本で地方選挙の実態を徹底取材した博士論文がベストセラーとなったことをきっかけに、政権与党の実力者・財界の要人らと数十年にわたって深い関係を築き、アメリカ有数のジャパン・ウォッチャーとして知られるようになった[1]

コロンビア大学で東アジア研究所所長・政治学部教授として長くアメリカにおける日本地域研究を主導する役割を果たしたほか[2][1]、日本でも東京大学客員教授、慶應義塾大学客員教授などを歴任。

  1. ^ a b 『現代外国人名録』日外アソシエーツ、2020
  2. ^ 引用エラー: 無効な <ref> タグです。「:1」という名前の注釈に対するテキストが指定されていません
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