掲載時肩書 | ファッションデザイナー |
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掲載期間 | 2019/08/01〜2019/08/31 |
出身地 | 大阪府 |
生年月日 | 1939/08/25 |
掲載回数 | 30 回 |
執筆時年齢 | 80 歳 |
最終学歴 | 専門学校 |
学歴その他 | 文化服装学院 |
入社 | 小松ストア |
配偶者 | |
主な仕事 | 装苑賞、欧州視察、GS、前衛ファッション、NY,TD6,パリ、中国、合唱団、花火 |
恩師・恩人 | 樋口廣太郎 |
人脈 | 賢三、松田光弘、金子功、一生、英恵、寛斎、安井かずみ、加賀まりこ、ダイアナロス、セザール、 |
備考 | 親娘4人デザイナー |
氏は、この「履歴書」に登場したファッションデザイナーとして、森英恵(1994.4)、ピエール・カルダン(1996.4)、芦田淳(2009.8)、高田賢三(2016.12)に次いで5人目である。森英恵はサン・ローランらパリ有名デザイナーとの交流を、特に巨匠ジパンシーの自宅に招かれたときはオードリー・ヘップバーンがホステス役を務めてくれた話、カルダンは服飾から生活雑貨にいたるまでのデザイン進出、芦田淳は皇室とくに浩宮様のような子供ファッションの展開、高田賢三はゲイとしてゲイカルチャーをファッション界に持ち込んだ話などが興味深かった。
コシノ氏も型破りで、文化服装学院の「花の9期生」として高田賢三(ケンゾー)、松田光弘(ニコル)、金子功(ピンクハウス)らとデザイナー技術を切磋琢磨すると同時に芸術論、映画談義、恋愛話などを戦わせ、自由な時間と空間を広げることで人生を開花させた。三宅一生との出会い、彼女に弟子入りした山本寛斎との出会いから、グループサウンズ(GS)衣装を任されるようになり、ユニセックスファッションとして脚光を浴びるようになる。沢田研二らのタイガース、加瀬邦彦のワイルドワンズら長髪の男たちに厚底ヒールの靴、ピンクのブラウスやパールで華やかに飾り付ける。これで音楽と服飾が結び付き、新たな流行が生まれたのだった。
彼女はサイケの女王にもなったと書いている。安井かずみ、加賀まりことの付き合いが深まり、六本木野獣会のメンバーである大原麗子、小川知子、かまやつひろし、井上順などとの芸能人やここに集まる映画監督の黒澤明、作家の三島由紀夫、阿部公房、建築家の丹下健三、画家の岡本太郎らと付き合いで、大人の流儀や教養を吸収した。そして、若い人たちとディスコに繰り出し、黒人バンドの生演奏に合わせてゴーゴーダンスやモンキーダンスを踊りまくる。彼女の服装はこの雰囲気に合わせたサイケデリック(極彩色)であったため、ケバケバしい前衛ファッションのリーダーとして、メディアから「サイケの女王」と呼ばれたが、これらの人脈が新しい文化の潮流となったのだった。
私が一番驚いたのは、彼女は音楽に合わせた花火のデザインと演出を手掛けたことだった。普通ファッションデザイナーは服飾や生活雑貨が仕事の中心だと思っていた。ところが、毎年沖縄で開かれる琉球海炎祭りで「デザイン花火」を担当することとなった。悩んだすえ、「花火は暗い夜空を舞台にした色彩の芸術。だから黒い背景に絵を描くつもりでデザインすればいい」と考えつく。親日家の英ロックバンド「クイーン」のフレディ・マーキュリーがスペインの世界的なオペラ歌手モンセラート・カバリエとデュエットした「バルセロナ」の曲に合わせて、フレディが歌うときは白い花びら、モンセラートが歌うときは赤い花火が打ちあがるように演出したという。こんなユニークな発想がすばらしい。
コシノ ジュンコ | |
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コシノ ジュンコ | |
文化功労者顕彰に際して 公表された肖像写真 | |
生誕 | 小篠 順子 (こしの じゅんこ) 1939年8月25日(85歳) 大阪府岸和田市 |
国籍 | 日本 |
出身校 | 文化服装学院 デザイン科卒業 |
著名な実績 | デザイン |
配偶者 | 鈴木弘之 |
親 | 小篠綾子(母) |
受賞 | 装苑賞(1960年) |
公式サイト | JUNKO KOSHINO |
民族 | 大和民族 |
活動期間 | 1960年 - |
影響を受けた 芸術家 | 小池千枝 |
影響を与えた 芸術家 | 山本寛斎 |
コシノ ジュンコ(1939年〈昭和14年〉8月25日 - )は、日本のデザイナー。JUNKO KOSHINO株式会社所属、BiS終身名誉メンバー[1]、文化功労者。本名は鈴木 順子(すずき じゅんこ)。旧姓は小篠(こしの)。