掲載時肩書 | ペルー共和国大統領 |
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掲載期間 | 1999/06/01〜1999/06/30 |
出身地 | ペルー |
生年月日 | 1938/07/28 |
掲載回数 | 29 回 |
執筆時年齢 | 61 歳 |
最終学歴 | 米国ウィスコンシン大学 |
学歴その他 | 国立農 科大学、仏ストラスブール大留学 |
入社 | 母校講師 |
配偶者 | 近所の娘 |
主な仕事 | 建設会社、母校学長、大統領、インフレ年7千% 、2大テロ撲滅、日本大使館事件、民営化 |
恩師・恩人 | 小学校女教師と独・女性 |
人脈 | ガルシア前大統領、対抗者1:バルガス・リョサ(ノ賞)、対抗者2:デクエヤエル前事務総長、青木駐ペルー大使、 |
備考 | 両親熊本 |
1938年7月28日 – )はペルー生まれ。学者、政治家、第91代大統領(在職:1990年7月28日 – 2000年11月17日)。娘は2011、2016、2021年のペルーの大統領候補で政治家のケイコ・フジモリ。学位は農業工学修士(ラ・モリーナ国立農科大学)、数学修士(ウィスコンシン大学ミルウォーキー校)。フジモリは東アジア系の人材も重用しており、フジモリの熱烈な支持者で中国系のビクター・ジョイウェイ(英語版)をペルーの首相に起用した。ペルーの大統領では初めて中華人民共和国を訪問するなどアジア外交を展開した他、日系人がペルーの大統領になったことにより日本との外交も積極的に行われるようになり、日本からの融資なども引き入れることに成功した。
1.初の日系学長
1984年、国立農科大学の学長選挙で選ばれ、1902年の創立以来初の日系人の学長に就任した。まず直面したのが、学生や職員による深刻なストライキだった。これらは真摯な直接対話で解決することができた。
将来の政治スタイルを形成する上で役だったのは、学長時代に引き受けたテレビ出演だった。それは国営の7チャンネルが毎週1回放映していた「コンセルタント」という題名の番組だった。スペイン語で「調和」という意味のいわば政治討論番組だった。毎回、「対外債務」「水害」「農業」などのテーマに従って、政党代表らが議論し、私は司会者として仕切る役目を負った。番組をうまく進めるため、各テーマごとに専門家数人と会合を持ち、いろいろな情報を聞いて分析し、実際の番組でどのような質問をぶつけたら効果的かなど、あらかじめ詳細なイメージを作るようにしていた。
この経験は専門知識を習得できただけでなく、その道の専門家の意見をじっくり聞いて、最後は自分で決断を下すという政治スタイルを形成することに繋がった。全国放送の7チャンネルに出演したおかげで、地方の人に顔を売ることができるという副次的効果も伴った。
2.大統領に当選、課題山積
1990年の選挙キャンペーンでは、資金不足を補うためあらゆる知恵を絞った。「フジモービル」と名付けたトラクターに乗って農業重視のイメージを強調したかと思えば、浴衣に日本刀を持った姿でテレビに登場し日本のイメージと自分をダブらせたりした。ペルーでは日本人はまじめだという好印象が持たれていた。
「誠実、勤勉、技術」。私が選挙で掲げたスローガンだ。大統領になってからも、借りた金は返す。骨身を削って仕事をする、専門家の意見を十分に聞いて裏付けを持って仕事をする、この公約は守り続けている。
大統領になると課題は山積していた。年間7000%という超インフレ、国は退廃し、地方の多くの都市や主要な大学は極左テロ集団や改革運動集団の支配下にあった。前政権はそうした状況でも人気どり政策を続け、公務員への給与支給額だけで税収の110%に達していた。ガソリン価格も据え置かれたままで、1ガロン(約3.8L)のガソリン値段は1リットルのコカ・コーラの4分の1程度の値段というありさまだった。外貨を含め国庫には全くお金がなかった。経済危機とともに失業者が増加、社会不安は高まっていた。
私は専門家の意見を聞き、計画作成チームと一緒に経済政策を策定した。そして、1990年8月8日、ウルタド首相兼経済相から国民に大きなショックを与える経済政策を発表してもらった。ガソリン価格が32倍、砂糖価格が13倍、パンが約3倍と、大幅な値上げの発表は、国民から「フジショック」と呼ばれた。
発表を前に、私は軍の首脳を呼んで、不測の事態に備えるため、当日は軍隊をリマ市内などに配備するよう指示した。予想通り市民の抗議行動が起こり、議員の一部も抵抗した。しかし、私は問題解決に向け、決断する必要があったのだ。
3.ペルー日本大使公邸のゲリラ占拠事件
1996年12月17日午後8時15分過ぎ、それは突然起こった。武装した左翼ゲリラ、トゥパク・アマル(MRTA)のメンバーが、天皇誕生日の祝賀会が開かれていた日本大使公邸を急襲、一瞬にして約500人を人質にしたのだ。武装テロリストは20人ぐらいで、多くの人質をとり立てこもっていた。私は国家情報局顧問のモンテシーノスに会った。そしてどのような軍事作戦や情報収集作戦を展開するかについて話した。仮眠をとれたのは18日未明の4時半だ。直ぐにトンネルを掘ることに決め、18日から発作作業が始まった。最初のトンネルは12月28日に完成、「情報収集トンネル」と命名された。公邸の給仕部屋の下に通じる長さ13mほどの細いトンネルで、内部の盗聴用に使われた。最初の隠しマイクは、電気を止めるために技師が公邸に入った時に取り付けられた。これ以来、公邸内の様子をつぶさに報告されてきた。
平和的解決を探るうえで、テロリストとの対話を進める役割を果たしたのが保証人委員会だった。テロリストが武器を引き渡すとすれば、第三者的な組織が必要だろうと考え、私が21日に提唱し設けられた。委員はシプリアーニ大司教、カナダのビンセント大使、赤十字国際委員会のミニグ・ペルー代表が引き受けてくれた。対話を通じて、人質も次第に解放された。ある日私はペルー政府側の窓口役だったパレルモ教育相に、人質が70人ぐらいになったら部分的な開放は応じないよう命じた。公邸内の犯行グループは14人。人質が70人より多ければ、救助作戦に犠牲者が出る可能性がある。逆にそれよりも少なければテロリストが人質を監視する努力が減り、彼らに余裕が生じると考えたからだ。
翌年4月半ばに作戦決行用のトンネルができあがっていた。私の腹は固まった。その日からトンネル内に突入部隊を配置した。4月22日午後、私は裁判所にいた。前妻のスサナとの離婚手続きのためだ。突入は午後3時と決めていた。3時過ぎトンネル内のモンテシーノスから法廷の私に電話が入った。「セルパたちは1階にいる」。この時間帯にテロリストたちがサッカーに興じていることは盗聴情報から分かっていた。「続けよ」。私はこの言葉を2回繰り返した。トンネルではモンテシーノスが爆破へのカウントダウンを始めた。「・・・3,2,1」ではテロリストに感づかれる恐れがあり、カトリックの決まり文句にした。作戦は成功した。
南米ペルーのアルベルト・フジモリ元大統領が11日、86歳で死去された。「私の履歴書」に登場は1999年6月で61歳のときでした。’24年9月13日付で毎日新聞には「余禄」と「評伝」に、日経新聞も「春秋」に掲載されたが、「評伝」には下記の如く追悼されていた。
貧しい国民を熱狂させるポピュリスト、人権侵害との批判をいとわず改革を推し進めた独裁者。2つの顔を持ち合わせ、約10年にわたり国を率いた。少数エリートの「寡頭政治」と評されたペルー政界に風穴を開け、経済成長の礎を築いた実績に異論は少ないはずだ。
熊本県出身の日本移民の子として首都リマで生まれた。相手の発する日本語は理解していたのに、日本語で答えることは一切なかった。日系人は差別や弾圧と戦い、農業や小さな商店を営みひっそりと生きてきた。自身も排日暴動を経験し、タイヤ修理の父の仕事は行き詰まった。
「ペルー人になり切る」ことを選択したフジモリ氏。1990年、大統領選に初当選した際には、目立つことを嫌う日系人からの表だった支援は得られなかったという。
支持基盤は「持たざる人たち」だった。山あいの寒村にヘリコプターで降り立ち、首にタオルを巻き、日本からの物資を配った。政治的に無視されてきた先住民らに語りかけ、道路や橋などのインフラ、学校を次々と建設した。一方、緊縮財政で物価上昇を抑え外国企業を誘致した。
改革を急ぐあまり、軍部を使った強権的な政治手法に批判も強かった。左翼ゲリラによる1996年の日本大使公邸の占拠事件。軍は公邸に向けて爆音を流し、その音に紛れて突撃用のトンネルを掘り進めた。
最後は武力突入を決行し、ゲリラ14人を全員射殺した。「娯楽用に」と公邸内に送り込んだギターに仕込んだ盗聴器から、ゲリラたちの動きは筒抜けだった。作戦は緻密で容赦なかった。
転落の始まりは2000年の大統領選で実現させた「3選」ではなかったか。憲法は3選を認めていなかったが、1期目は旧憲法下であり、出馬は可能と主張して最高裁も折れた。
だが、側近による買収疑惑が浮上すると国を追われ、日本に立ち寄りそのまま亡命生活に入った。ペルー人になり切ったはずの男がすがったのは結局、「祖国」の日本だった。
05年、突如日本を出国し、ペルーの隣国チリに降り立った。07年にはチリの首都サンティアゴ郊外で自宅軟禁されたまま、国民新党の比例代表候補として参院選に出馬したが落選した。
「日本で選挙運動ができず残念な結果になったが、日本の皆様への気持ちは変わらない」。07年7月、ペルー時代には封印していた日本語で記者らの取材に応じた際の言葉には力がなかった。
その後ペルーに戻ったものの人権侵害などの罪で収監され、大統領に返り咲く夢は娘のケイコ・フジモリ氏に託された。しかしケイコ氏はすでに3度落選。強権と腐敗という父の「呪縛」は想像以上に重い。
(元サンパウロ支局 岩城聡)
アルベルト・フジモリ Alberto Fujimori | |
1991年10月21日撮影 | |
任期 | 1990年7月28日 – 2000年11月22日 |
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副大統領 | |
首相 | 一覧参照
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出生 | 1938年7月28日 ペルー、リマ |
死去 | 2024年9月11日(86歳没) ペルー、リマ |
政党 | ペルー 変革90(1990年 - 1999年) ペルー2000(2000年) 未来同盟(2006年) フエルサ2011(2010年 - 2024年) 日本 国民新党(2007年) |
配偶者 | スサーナ・ヒグチ(離婚) |
子女 | ケイコ ヒロ サチ ケンジ |
アルベルト・ケンヤ・フジモリ・イノモト(スペイン語: Alberto Kenya Fujimori Inomoto、スペイン語発音: [alˈβeɾto fuxiˈmoɾi]、日本名:藤森 謙也(旧姓)、片岡 謙也[1]、1938年7月28日 - 2024年9月11日)は、ペルーの学者、政治家、第54代大統領(在職:1990年7月28日 - 2000年11月17日)。娘は2011、2016、2021年のペルーの大統領候補で政治家のケイコ・フジモリ。日系人。
貧困対策や治安改善で成果を出したとして根強い人気を得る一方で、人権侵害を繰り返したり民主主義を軽視した姿勢を示したりしたことへの反発も強く、国内では評価が二分されている[2]。
学位は農業工学修士(ラ・モリーナ国立農科大学)、数学修士(ウィスコンシン大学ミルウォーキー校)。
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