J.W.フルブライト ふるぶらいと

政治

掲載時肩書元米上院議員
掲載期間1991/05/01〜1991/05/31
出身地アメリカ合衆国
生年月日1905/04/09
掲載回数30 回
執筆時年齢86 歳
最終学歴
米国ワシントン大学
学歴その他英国オックスフォード大学留学
入社大学教鞭
配偶者資産家娘(インテリ賢母)
主な仕事オックスフォード留学、34歳学長、下院議員、上院議員、外交委員長、再婚(28下)
恩師ペッパー教授
人脈交換留学(台湾、ビルマ、フィリピン計27国5000人以上)、マンスフィールド、ケネディ、ジョンソン、ニクソン、レーガン(悪評)
備考母新聞社主(最大の支援者)
論評

1905年4月9日 – 1995年2月9日)は、アメリカ合衆国の政治家。1942年、下院議員選挙に立候補し、当選する。下院では国際的な集団安全保障機構、平和維持機構の創設を支持し、アメリカが後に国際連合となるその機関に参加することを提案するフルブライト決議案を提出、可決されたことによりフルブライトは全国的な知名度を得た。1944年の改選の際には再選を目指さず、上院議員選挙に立候補・当選。5期30年(最長記録)に渡り、外交問題の専門家として活躍、上院外交委員長職を長年務める(16年間)。1945年、アメリカと世界各国との教育交流の計画を議会に提出、国務省 教育文化局(Bureau of Educational and Cultural Affairs)の出資により、フルブライト奨学金を設立。外国人として初めて「私の履歴書」に登場した人物。

1.私の原点
第二次世界大戦中から1974年まで、30余年間の議員生活を振り返って、人に誇れるものは3つぐらいだ。
第一に留学生制度を提案し、実現させたこと。第二に大戦中から国際連合機構を最も早く提唱し、設立に助力できたこと。そして第三に歴代大統領、連邦政府の強大な権力の横暴、傲慢さを批判し、米国の外交政策を良識あるものに改めようと努力してきたこと。
 実は、3つとも同じ思いから出ている。第一次、第二次大戦の悲惨な結末を教訓に、二度と戦争を起こしてはならない、という反戦・非戦の誓いが私の政治の原点だからだ。

2.ローズ奨学金で英国留学(19歳で米大学卒業し、Oxford大学で3年間)
私は英国現代史を専攻した。といっても、授業はギリシャから始まる。ギリシャからローマ帝国を経て中世、ルネサンス、産業革命あたりまで、すべて欧州中心。指導官には毎週、リポートを提出する。テーマを与えられ、課題図書を数冊読んで、自分の考えをまとめる。それを教官が批評する、というやり方だ。プラトン、アリストテレスなど紀元前4,5世紀のギリシャ・アテネ文化全盛期、アレクサンドロス大王の東征など今でも大好きなテーマだ。ここで私は鍛えられた。米国の片田舎でいかに無知なまま大学を終えたかを、知った。
 英語で満足に文章を書けない。それをマッカラム先生に徹底的に直された。彼は同時に政治への関心が深く、英国史の解説を通じて英米間の政治制度の違いを詳しく教えてくれた。第一次世界大戦後の国際連盟の世界史的意義を熱っぽく語ってくれたのも彼だった。

3.留学生計画(のちのフルブライトの留学生交換制度に)
大戦中に米軍が世界各地に残した軍事施設、それに車両、 食糧、毛布、衣類などの備品類を戦後、どう処分すべきかと、国務省が頭を悩ましていた。資産をそっくりそのまま引き取ることは不可能だったし、全部その国に無償で提供するほどの余裕はない。かといって、相当額をその国に支払わせようにも、ドル返済はできないし、その国の通貨ではとても充当できない。戦場国はどう対処すべきかで、苦慮していた。
私は、若き日にローズ留学生としてカルチャーショックと共に貴重な経験を活かせるのではと思った。すなわち、この双方の問題と留学生計画を組み合わせれば八方丸く収まると考えたのだ。つまり、在外資産をそれぞれの国に売却し、各国はその支払い方法をとして、自分の国の留学生をアメリカに送る経費、および米国からの留学生を受け入れる経費を負担する、というやり方だ。これだと各国とも自国通貨で対応できる。米政府にとっても新たな負担を伴わずに新規事業を始められ、在外資産を一挙に解決できるのだ。
 47年から事業が具体的に始まり、交換留学生の第一陣は48年、中国(現台湾)、ビルマ(現ミャンマー)、フィリピンの間で実現した。米国人47人、各国から米国への留学生は計36人だった。その後、英仏をはじめ欧州、アジア諸国が続いた。日本との交換協定ができたのは51年8月だ。52年末までには27か国と協定でき、1年間に米国人が1200人以上、外国人が2200人以上留学するまでになった。

4.ケネディ大統領との裏話
1960年11月、ケネディが大統領選に勝利した直後、新政権の要である国務長官に誰がなるか、が当面の焦点になった。新聞報道では最有力候補に私の名が挙がった。副大統領になるジョンソンが私を強く推したし、ケネディ本人も私を起用したがったようだ。しかし私は上院外交委員長の方が気に入っていたのでその旨を伝えた。その年のクリスマス休暇に、ケネディが私をフロリダ州パームビーチの別荘に招いてくれた。
 ケネディは国務長官の話は一切せず、ただ「迷惑をかけて申し訳ない」とだけ言い、あとは二人で楽しくゴルフをした。滞在中、父親で元英国大使のジョセフ・ケネディが事情を説明してくれた。ジョン自身は私を右腕にしたがった。だが、私が市民権運動に否定的な見解を示しているため、黒人団体からの協力が得にくいこと、さらに私がイスラエル建国を支持しながらユダヤ人組織のロビー活動には批判的だったため、新政権とユダヤ人団体との関係がギクシャクする心配があること・・などだ。私の任命にはジョンの弟のロバートが最も強硬に反対したという。私は父親にそれでいいとうなずいた。
 61年1月に誕生した新大統領は何かと私の助言を求め、私も積極的に協力した。人事でも私の意見が相当採用された。そのいい例が、ハーバード大のE・ライシャワー教授を駐日大使に登用したことだ。

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